たのしい知識 Le gai savoir

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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて── ④

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
 
3. 終わりに
本節では、これまでの議論を受けつつ、高橋の当該記事の分析から、「では、我々は、「今・ここ」においては見出しえない行為の意味を、どのように事後的に理解するのか。いいかえると、現にその行為の只中においては存在し得なかったが行為の意味を事後的に再構成するとき、行為の意味は、具体的にはどのような過程を通じて生じるのか。そして、そのような時間的間隔を伴った行為の意味理解は、我々にとって一体いかなる意味を持つのか」という「はじめに」で掲げた問いに対して応答する。
また、「2−2.方法の明示」で掲げた目的をに対し、当該記事の三つの部分がいかに従属するのかを明示したのち、こうしたシュッツ(あるいは高橋)による行為の意味理解にどのような問題や課題があるのかを明示する。
 
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
2–3の(a),(b),(c)で分析したように、高橋の記事において、行為の意味理解のプロセスは、ある種の時間的な間隔を伴った反省的な再構成である。そして、その特筆すべき点は、過去を行為の意味を再構成する際、高橋はその過程を、ある種の役割関係の再演によって示していた。つまり、行為の意味とは、行為者Aの行為aが原因となって、出来事bを結果として導き出すという、単一の因果系列を理解することによって理解されるものではない。また、それは、行為した時点における行為者Aの内的な表象から直接に導き出されるものでもない。それは、過去から現在にまで伸び広がる時間の幅において、当該行為者を含む複数の行為者とのあいだで生じる相互作用から生産されるものである。ゆえに、このような行為の意味が生産されるプロセスは、ある種の時間的な間隔を伴うと共に、ある種の協働的(co-productive)な過程によって実現すると言ってもよい。というのも、繰り返しになるが、過去における行為の意味とは、過去から現在に至るまでに生じる相互作用の只中から遡行的に見出されるだからである。
また、そうした行為の意味は、共同主観的な性質を持つということも出来る。というのも、高橋の行為理解のモデルにおいて、行為の意味理解は、孤立した意識による反省によって再構成されるのではなく、各々に反省的な認識を行うことが可能な主観的存在同士の相互作用より生じるからである。ただし、そこでの共同主観的な性質は、そうした行為の意味理解の可能性の条件としてアプリオリに措定されるような、純粋な形式として超越論的なものではない。むしろ、そうした役割関係の再演の只中から、遡行的にかつての行為の意味が再構成されるという、ある種ダイナミックな性質を持っている。これらのことから、行為の意味理解とは、ダイナミックな役割関係の再演を伴う、ある種の共同主観的なプロセスによって発生すると考えられる。そのことから同様に、もし仮にそうした実際の相互作用から人が切り離されてしまえば、そこには行為の意味を理解する可能性は全くあり得ない、ということになる。
 
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか、そのことを明らかにすること」という当該記事の目的に対して、以下の三つの部分は下記のように従属していると考えられる。
先立って述べるならば、上記の目的に埋め込まれた問いへの応答は、──本稿が導出した議論の枠組みに従うならば──他者との相互作用において役割関係を再演すること、あるいはそのような役割関係の再演に対して積極的に参与することに他ならないというふうに考えられるだろう。つまり、そうした体験の理解や受容は、何度も繰り返し反復されるある種の相互作用のもとで事後的かつ遡行的に再構成されると見なされるからである。では、このような目的への応答に対して、当該記事の三つのパートはいかなる機能を果たしているだろうか。
 
3−2.(a) 行為の意味理解を困難なものとする、二つの不可能性の水準
まず第一に、2−2.(a)においては、行為ないし経験の意味理解は、他者との相互関係から切り離されては生じないということが述べられている。その際、そのような他人との相互作用からの切り離しは、主に二つの水準において設定されている。第一に、それは「このわたし」に対する他人の端的な他者性である。他者は「このわたし」とは端的に異なる存在者であり、それゆえ、他者の行為の意味理解は、ある種の推定の域を出ることが出来ない。高橋の記述において、そうした自他の端的な意味での分離は、ときに、行為や経験の意味理解の可能性を奪うものであるというふうに想定されている。これが第一の水準である。第二にそれは、個別的な他者の時空上の位置が、「このわたし」の時空上の位置とは全くかけ離れている場合がある、という点である。
こうした2−3(c)と3−1の議論からも分かるように、行為の意味理解にまつわる、こうした二つの不可能性の水準は、実は高橋において、共通の問題に根差していると考えられる。それは、行為の意味理解は常に既に事後的に再構成されるということ、そして、そうした再構成は他者との動的な相互作用のうちより生成されるという点である。それゆえ、(a)において、「少女」や「父」との経験について述べたのち、そのまま高橋が「『あの戦争』の被害者」が語る「戦争の悲劇」が「自分には関係のないこと」のように感じられるという記述を繋いでいることは、高橋が前提とする行為の意味理解の形式から、いわば必然的なものとして考えられる。「このわたし」とは端的に異なる他者とは、同時に、時空位置を全く異にする他者であり得るからである。
したがって、他者が「このわたし」とは端的に異なるという不可能性の水準と、他者が「このわたし」と時空上の位置が全く異なり得るという不可能性の水準という二つの水準は、ともに関連したものと考えられる。そして、当該記事における高橋の最大の狙いは、第二の水準、すなわち時空上の位置が全く異なる他者の、その理解の不可能性を反証であると表現できる。
 
3-2. (b) 時間的に隔たった他者の行為の、その理解可能性について
上記のことを前提とした上で、高橋は2−2.(b)と(c)において、ある主張を導いている。それは、もし仮に、かつての経験した自己と他者の経験でさえも、現在時における経験によって新たな意味を獲得することが可能ならば、「このわたし」とは一度たりとも交渉を持ったことのない「70年前に戦士した伯父」が経験した体験でさえ、我々は理解することが出来る、という主張である。つまり、現在時において我々が「ふつうの人間」として他者とのあいだの役割的な相互作用の只中にいるならば、どのような他者の行為や体験の理解でさえも、あくまでも事後的に、完了時制として表現される形式を通じて生じる、というふうに高橋は想定しているのである。
 
このことから、2−2.(c)のパートで、高橋が以下のように述べている理由も明瞭に理解することが出来るだろう。「慰霊の旅を熱望」する父と母の代わりにフィリピンのルソン島に向かった「わたし」は、伯父の慰霊の儀式を執り行ったのち、以下のように述べている。
 
「そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである。〔…〕わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。〔…〕慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。そして、その視線に気がつかなくとも、彼らは、わたしたちを批判することはないだろう。「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである」
 
上記の記述において、高橋は「無数の死者たち」が「わたしをじっと見つめている」ように、すなわち、死者が今もなおわたし自身に対して働きかけているように感じている。もちろん、事実として、死者がある特定の時空位置に局在し、また「わたし」に対して視線を向けているわけではない。しかしながら、現在時において「わたし」が70年後の未来を思うとき、同時に、70年前の死者にとっては、この現在でさえも「未来」なのだということに「わたし」は気がつく。そのときにはじめて、「わたし」が「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈るのと同じように、かつての死者たちもまた、「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈っていたのではないかとする理解が生じる。それゆえ、「過去」に存在したであろう他者の行為や経験の意味理解は、現在の我々が現に只中に置かれている相互作用から遡行的に導き出されるものであるというふうに高橋は考える。

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