たのしい知識 Le gai savoir

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ことば|記憶|アーカイブ

行為の意味理解における時間性と共同主観性について──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて──①

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(2015,ポリタス)
 
1. はじめに
シュッツによれば、動機の理解は事後的に生じる。あるいは動機は、その只中において「〜のために〜するつもりだ」という未来時制で表現される目的動機から、その事後において「〜なので〜したところだ」という完了時制で表現される回顧動機へと移行したときに、初めて理解可能となる。ゆえにシュッツによれば、我々は、その過程の只中において行為の意味理解から常に既に立ち遅れており、そのため、翻って動機の意味とは、常に既に反省的に再構成されたものに他ならないと見なされる。
 
では、我々は、「今・ここ」においては見出しえない行為の意味を、どのように事後的に理解するのか。いいかえると、現にその行為の只中においては存在し得なかったが行為の意味を事後的に再構成するとき、行為の意味は、具体的にはどのような過程を通じて生じるのか。そして、そのような時間的間隔を伴った行為の意味理解は、我々にとって一体いかなる意味を持つのか。
 
本稿では、そうした時間的な間隔を挟んだ行為の意味理解が、一体どのように過程を通じて発生するのかに関して、主に、高橋源一郎の「死者と生きる未来」(ポリタス,2019)というWeb記事の分析を通して明らかにし、そのあり得る特徴を幾つか明らかにする。
 
その際、本稿ではそうした当該記事の分析を、ある種の質的な事例研究の一つとして位置付ける。というのも、高橋は価値的行為を行う人間の一般者ないし代表者とは異なるが、しかし、そうした価値的好意を行う人間種のうちの一人である。ゆえに、高橋の記事は、すくなくとも行為者一般がいかに行為の意味を理解し、そのような理解によって生活世界を立ち上げるのかに関する、一個のサンプルとして見なすことができる。そうした事例の分析は、あくまでもそれだけでは科学的な営みと言うことは出来ないが、しかし全く無意味なものというわけではない。こうした事例分析は、社会科学という営み全体において、ある種の仮説形成的な役割を持つ(そうした質的な事例研究の位置づけについては、以下を参照[稲葉 2019])。
 
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2015年の夏、作家の高橋源一郎は「死者と生きる未来」という記事を書いている。この記事は、津田大介が運営するWebメディア「ポリタス」上に掲載された。そして、この記事は主に、戦後の70年が一体どのような70年であったのかを回想することを目的として書かれた。
 
そもそも2015年とは、安全保障に関する法の制定が大きな社会的トピックとなった年である。具体的にいうと、2015年は慰安婦問題の過熱化や尖閣諸島問題といった、主に中国や韓国などの近隣諸国との外交状況がより深刻化した年でもあった。戦後の70年を振り返る当Webサイトの企画は、そうした過熱する外交問題から要請されたものであり、それは、戦争という経験を我々が今後いかにして受容し、その記憶を我々がいかにして継承していくのかに関する、喫緊した要請であった。そして、当該記事は、そのような逼迫する社会情勢の変化を背負う企画記事の一つとして書かれた。
 
当該記事において高橋は、戦後70年を回想するにあたり、自ら自身の過去に起きた出来事について語っている。いいかえると、高橋は、現在時の「わたし」がかつての自らの人生を回顧するという形式のもと、自己史を再構成し、そしてその自己史の再構成を通して、戦後日本の70年を反省的に捉えている。つまり、高橋はここで、戦後の日本国民が過去の戦争を回想することと、自ら自身が過去の記憶を回想することのあいだに、ある種の類似した過程を認めるように文章を構成している。それゆえ、当該記事においては、我々がいかにして過去の行為の意味を事後的に理解するのかに関する、ある一つのパターンが具体的に提示されていると考えることができる。というのも、自己史の再構成と戦争体験の再構成とを重ね合わせることにより、高橋はそれを一人の特定の人間にのみ有用な行為理解としてではなく、特定の種一般に属する全ての人々に有用な行為理解として提示しているからである。そのため、もしその意図と試みに十分な説得性を認めることが出来るならば、その主張は行為の理解に関する一つのパターンを仮説的に提示していると見なすことができる。
では、高橋は、そのような行為の意味理解をいかにして生じるものとして提示しているのか。
 
2-2. 方法の提示
本節では、高橋源一郎「死者と生きる」を分析するにあたり、その方法を明示する。それは以下のものである。
まず、本稿では当該記事の持つ論理構成上の形式を以下のように仮定する。第一に、本稿では当該記事を主に三つの部分から成る一個の全体として仮定する。第二に、当該記事において、そうした三つの部分は、それを統合する一つの目的に従属するものであると仮定する。その際、本稿では、その目的を「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか、そのことを明らかにすること」であると仮定する。この仮定は、そもそも当該記事が上述の企画のために要請された依頼原稿であることから、あくまで暫定的に正当化されるだろう。上述の諸仮定により、すなわち当該記事を三つの部分に分割し、それを綜合する目的とを設定することにより、本稿において、個別具体的なテクストの読解作業は、そうした部分が目的のために有意味な機能を有しているかどうかを判定する作業として位置付けられる。
次に本稿では、そうしたテクストの読解作業を、主にそこで述べられている主張に対し、その意味の解釈の枠組みを都度提示することによって行う。だがその際、本稿では、当該記事を読解するために何か特定の特権的な理論的枠組みを想定しない。そのような特定の理論的枠組みを適用することによってではなく、あくまでも先の論理構成にまつわる形式の仮定に従い、その目的に対して部分がどのような機能を持っているのか、実際のテクストを参照することを通して、テクスト分析を行う。
 
2-3. 分析
2−2.でも述べたように、本稿では、当該記事を有機的に連関する三つ部分に分割可能であると仮定したい。それは以下の三つのパートである。
第一のパートは、現在の「わたし」が過去を回想し、それについていかなる意味づけをすることもなく、また情動的な受容経験を行うことなく、淡々とそれを事実として受け入れていく箇所である(a)。
第二のパートは、そのような過去を経たのち、息子と共に居る場面を通して、「わたし」が、かつて出会った少女や自らの父との出来事や、彼らの行為に対して、異なる意味を見出す箇所である(b)。
第三のパートは、そうした意味理解を通じて、すでに過ぎ去ってしまった過去の出来事をいかなるものとして見なすべきかについて、高橋自身の見解が述べられている箇所である(c)。順に見ていこう。

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