たのしい知識 Le gai savoir

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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて── ⑤

1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
 
3−2.(c) まとめ
3−2.(a),(b)より、本稿において仮定された三つのパートにおいて、高橋は、「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか」といった問いに対して、それらの各部分ごとを有機的に関連づけることを通して応答していると考えられる。
繰り返すならば、2−1.(a)は、他者の行為の意味理解がいかなる点において不可能となるのか(不可能性の二つの水準)、2−2.(b)は、翻って他者の行為の意味理解はいかなる点において可能となるのか(かつて関わった他者の行為理解の時間性と共同主観性との関連性について)、2−2.(c)は、2−2.(a)と2-2.(b)の議論を前提とした上で、当該記事全体を貫く主題に対して応答している箇所であると言える(一度たりとも関わったことのない他者の、その行為や経験の理解可能性について)。
 
3−3. 他者の行為の意味を、事後的かつ共同主観的に理解することの問題点
ここまでの議論を受けて、本項では最後に、上述の他者の行為理解が持つ問題点について指摘する。
ここまで述べてきたように、高橋の当該記事において、行為の意味理解は、現在時における相互作用を通じて、事後的にかつ遡行的に見出される、と考えられる。それは、いいかえると、行為の意味は、現在時の行為の只中にあっては理解不能であるということを意味している。そして、このような理解は、最終的には反省的に再構成される。それゆえ、現在時において行為者が行ったときの意図とは異なる行為の意味は、あくまで推定という形式のもとでのみ見出される可能性がある。たとえば、ルソン島で慰霊の儀式を行ったのち、高橋は以下のように述べている。
 
「人は、最後の瞬間が近づくとき、なにを考えるのだろう。〔…〕それがなにであるかは決してわからないであろう。けれども、それを想像することは可能であるように、わたしには思えた。なぜなら、彼らもまた、わたしと変わらぬ、ふつうの人間であったであろうから。〔…〕そして、わたしには、伯父が、彼らが、そのとき、戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像したに違いないと思えた。死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに晒されながら、それでも生き抜いて、その未来にたどり着けたら、と薄れゆく意識の中で、思ったのではないだろうか」
 
上記の引用において、注意すべき点は二点ある。
第一に、上記の引用において高橋は、戦死した人々が何を考えていたのかを「想像することは可能である」と述べる一方で、他方で高橋は「それがなにであるかは決してわからない」と述べている。つまり、そのようにして見出される他者の行為の意味は、あくまでも文字通りの他者の行為の意味と近似しているに過ぎず、したがって、そうした想像が、他者の行為の文字通り意味であることはあり得ない、と考えられる。いいかえると、他者の行為理解の共同主観的なモデルをい前提とするならば、厳然と存在する行為の真なる意味理解は、常に既に宙吊りに晒される(この点に関しては、以下の文献を参照。野家[1996]、浅野[2001])。
第二に、上記の引用においては、戦死者という他者の理解は、「伯父」と「わたし」が「ふつうの人間」であるという仮定から導き出されている。これは、シュッツの言う「他我の一般的定立」に相当する操作である。すなわち、高橋は当該記事において、「わたし」が戦死者とが、互いに似たような存在者であると仮定されることにより、他者の理解が可能であると見なしている。しかし、シュッツの述べる「他我の一般的定立」とは異なり、理解すべき他者を「ふつうの人」として仮定することには一定の問題がある。高橋はここで、「ふつうの人」とは「戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像」する人間であると考えられる。しかし、これは、現に高橋自身が「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈っていることから、同様にかつての戦死者たちもそう思っていたに違いないとする推定を前提としている。端的に言うならば、これは、他者を自らと同型の存在として仮定することを通して、他者の体験を理解しようとしており、そのような他者理解の形式は、他者の行為を恣意的に理解する可能性と常に隣り合わせであると指摘することができる。そして、それは明らかに他者の誤った理解に他ならない。
 
上述の議論より、高橋が想定する他者の行為理解モデルの問題点は、まず第一に、行為の真の意味が常に宙吊りにされること、第二に、そのような他者を自らと同型の存在として仮定する恐れがあること、この二点を挙げることが出来る。
 
参考文献
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫,2005)
浅野智彦『自己への物語論的接近』(勁草書房,2001)
稲葉振一郎社会学入門・中級編』(2019)
 
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