たのしい知識 Le gai savoir

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「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(3)

 本エッセイは以下のエッセイの続きである。

 

hiropon110.hatenablog.com

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補論(3) 「メタ文学論」の弱点

  1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない

 本エッセイでは、テクストの存在身分を検討し、またそうしたテクストが現実世界とのどのように関係するのかについて、形式的に記述した

 

 しかし、このような形式的な議論は、同時にその議論で用いられている概念の外延を確定する手続きを、不当に看過していると見なすことができる。そして、そのような看過は、本エッセイ自体の仮説の妥当性を揺るがす重大な瑕疵であると解することが可能である。どういうことか。

 

 たとえば本エッセイでは、その議論の重要な構成要素である二つの概念、すなわち「テクスト」「事象」にたいする外延の確定が全くなされていない。のみならず、外延を確定のための明確な基準が全く示されていない。これは本仮説の持つ重大な瑕疵である。

 

 「テクスト」と一言で言っても、『リヴァイアサン』のような社会哲学に関する古典的なテクスト、『ハムレット』のような古典的な文学作品、『純粋理性批判』のような古典的な哲学書、あるいは『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』のような歴史学の古典的なテクストなどがある。これらはみな、自然言語で書かれた「テクスト」である。では、本エッセイにおける「テクスト」には、これらすべてのテクストが該当するのか、あるいは部分的にしか該当しないのか

 

 こうした外延確定のための明確な基準を設定するためには、本エッセイで用いられる「事象」という概念の外延を確定することを必要である。だがしかし、この確定はそう簡単にできるものでない。

 

 幾つか例を挙げよう。
 第一に、シェークスピアの『ハムレット』はデンマーク王子ハムレットの復讐譚という、虚構的な存在者に関する物語である。このような物語において、そもそもテクストは、現実世界の事象なり出来事を記述していない。その意味で、『ハムレット』は、本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、同時に『ハムレット』は、一般に中世とは異なる近代的な主体の在り方を造形していると解釈される場合がある。そのような解釈の当否はさておくとして、仮にこのような解釈が正しいならば、『ハムレット』は、近代以後におけるわたしたちの在り方の原型を記述していると考えられる*1

 

 このことを本エッセイの議論に照らし合わすならば、近代以後の社会に生きるわたしたちの態度は、そのようなシェイクスピアの記述によって「形成」されたと解することはできるだろう。ならば、本エッセイにおける「テクスト」には、『ハムレット』のような虚構的な物語も当然のことながら含まれる

 

 第二に、『純粋理性批判』が記述しているのは理論理性に関する考察である。このような理論理性は、我々の認識能力の一部ではあるものの、本エッセイにおける「事象」が「現実世界に関するもの」と規定されているため、こうした不可視な概念を考察する『純粋理性批判』は、当然ながら本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、『純粋理性批判』において考察される主体(subject)と対象(object)との関係は、近代以後の社会を生きるわれわれの基礎的な認識図式であるし、また「分析」「総合」「判断」「概念」などといった諸概念は、カントやその他の哲学者の膨大な論述によって意味が構築されている。

 

 そして、わたしたちは、このような諸概念をもちいて現実世界の事象を解釈し、判断し、経験する。そのため、『純粋理性批判』のように不可視な対象を記述するテクストも同様に、本エッセイが想定する「テクスト」に含まれる余地がある

 

 しかし、このように「事象」の外延を押し拡げることは恣意的な操作ではないか、より明確な基準を用いるべきではないか、とする批判はありうる。そのため、本エッセイにおける「テクスト」「事象」などの外延は明確に確定されず、そのような外延の曖昧さは本エッセイが提示する「メタ文学論」の弱点であると言ってよいだろう。

 

2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない

 

 「3. テクストの超越論的先行性の論証 2. 仮想的反論への再反論」でも述べたように、このような「メタ文学論」の仮説に立った場合、「なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか」を説明することができない。あるいは、仮に説明することができたとしても、「それは著者が稀に見る天才であったからだ」といった、著者の持っている特殊な資質に根拠が依存してしまう可能性がある

 

 そのような説明は、当然のことながら個々の著者の資質に依存する以上、理論としては脆弱な説明である。このような説明によってしか、著者による事象の形成を説明することができないならば、本エッセイにおける「メタ文学論」の仮説が妥当性を持つと見なすことは困難であるかもしれない


  補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。

 わたしたちは補論(3-1)で、不可視な概念が「事象」に含まれるかどうかについて検討した。だが、以下の説明手続きをとるなら、「自由」「善」「価値」「意味」といった概念、すなわち特定の可視的な事物に依存せず、また特定の感覚経験の様式にも依存しない不可視な概念を、本エッセイの「事象」と見なすことは、ある面では幾らか容易である

 

 なぜなら言葉の意味は生活形式のうちで理解され、のみならず、その言葉の意味の真の理解は、その言葉を使用した「起源」に立ち返ることを要請するが、このような言語理解の形式は、不可視な概念を例に取った場合に最もよく理解することができるからである。どういうことか。

 

(ただし、その場合「テクスト」が記述しているのは「不可視な対象」であるため、出来事のニュアンスを含む「事象」とは異なる対象の命名が必要とされるが)

 

 ヴィトゲンシュタインによれば、私たちは言葉の意味は生活形式のうちで理解される。いいかえれば、言葉の意味とは、現実世界における言語話者間の相互コミュニケーションから独立して存在するものではない。そのため、そうした言葉の意味は、もちろん相互的なコミュニケーションや書かれたテクストの外には存在しない(このことは「2. 二つの認識能力の批判 1. 感覚的経験批判」でも確認したとおりである)。

 

 くわえて、そのような言葉の意味は、辞書のような書物によっても十全に理解されるものではない。というのも、そうした言葉の意味は、その言葉の外に実体として存在するのではなく、その言葉の使用経験の歴史に依存しているからである。周知のように、辞書は時が経つにつれて改定され、あらたな言葉の用法や意味の変更などが常に更新されなければならない。言葉の意味は常に変化し続けていくからである。

 

 とはいえ、言葉の意味理解が生活形式に依存するということは、言葉の意味が各言語使用者のグループに応じて恣意的に決められるものでしかない、ということを意味しない。なぜなら、もしその言葉の意味の理解が本当に正しい理解であるかどうかを確認するためには、複数の言語使用者のグループにおける言葉の使用法を確認する必要があるからである。

 

 また、そのような言語使用をする共同体は、現在だけでなく過去にも存在する。そして、現代における言葉の使用は、そうした過去における言語共同体の言語の使用に依っている。とするなら、ある言語の意味を厳密に理解するということは、まずその言葉が最も最初に使用された生活形式を理解する必要がある。ただし、そのような最初期の言語共同体は、当然のことながらもはや現存しない。ならば、そのような最初期の言語使用者たちの生活形式を理解するためには、当時の生活形式に即した言語使用によって書かれたテクストを集中的に読むことが必要となる。そして、そのような過去における言葉の使用こそ、言葉の意味がこの世界に誕生した「起源」に他ならない

 

 ところで、実際に感覚し経験することができる可視的な事物にくらべて、「自由」「善」「価値」「意味」などの不可視な概念は、そうした言葉一般の持つ歴史的な性格が最もダイレクトに反映される。いいかえれば、そのような不可視な概念は、言葉の使用によってのみ端的に「形成」される。その際、言葉の使用は不可視な概念の可能性の条件であるとともに、そのような概念をつうじた世界経験の可能性の条件である。このように考えるならば、不可視な概念について考察するテクストも同様に、不可視な概念に対して形式的に先行していると考えることは、それほどおかしなことではないだろう


補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

 もし本エッセイの「メタ文学論」に理論的な利点があるとするなら、それは、わたしたちが普段行なっている認識活動をすべて無矛盾なものとして連絡することができる点である。

 

 というのも、第一にこの議論自体は主に日常的な推論を通じて為されており、第二に、その検証は主に認知言語学や心理学などの知見から行うことができ(るかもしれない)、そして第三に、その結果として擁護されるのは、現実世界におけるある種の事象は日常的推論や経験的科学によっては理解できず、ただテクストの読解によって可能となるという、現実世界を理解する際のテクストの絶対的な優位性である

 

 つまり、「メタ文学論」において、我々の認識経験における三つ様式(日常的な推論、経験的観察、文献読解)とは互いに連絡され、棲み分けられ、そして共生し合う

 

   また、このような理論は、主に以下のような二つの理論を回避することができる。

    その二つの理論とは、第一に、一つの認識経験のみに絶対的な優位性を認め、他の認識経験を当の認識経験に「還元」することを求める理論、第二に、当の認識経験を他の認識経験から完全に切り離し、わたしたちが経験する事象は説明不可能な私秘的な根拠によってのみ理解されるとする理論、この二つである。

   これらの理論に比べ、本エッセイにおいて提示した「メタ文学論」は、認識経験を一個の様式にのみ押しつぶことなく、複数の認識経験との共生可能性を提示するという総合性の観点において、大きなメリットを持つ。

 

まとめ

 本エッセイは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護するために、テクストの存在身分やテクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述する「メタ文学論」を提起する試みである。

 

 そして、そのような「メタ文学論」のありうる立場として、本エッセイは「文学の基礎づけ仮説」を提起する。それは、「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」によってテクストの存在身分やテクストと現実世界との関係を基礎付けることを最重要の課題とする。いいかえれば、本エッセイの目的は、そうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」の真偽の検討することである。そして、それは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。本エッセイの主要な論述は、こうした「テクストの超越論的先行性」を真であると論証するために為された。

 

また、本エッセイの構成は以下のようなものである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

 

 ところで、このような「メタ文学論」は、個々のテクストを超えてテクスト一般の存在身分を検討するという意味で、こう言ってよければ、ある種の形而上学の試みの一つであると考えられる。

 

    だが、同時に本エッセイで考察した「メタ文学論」は、ものの可能性の条件でありながら、同時にそのものの経験の可能性の条件であるものとして「テクスト」を規定している。そのため、そのような試みは、私たちの認識が及びうる範囲というものが予め設定された上で「テクスト」という対象を規定していることになる。とするなら、それはある種の超越論的哲学の一派生形であるという意味において、認識論の試みというふうに言うことができるのではないか。このことについては、筆者の無知のゆえに、現段階では判断を留保したい。

 

 また主に「補論(1),(2),(3)」で詳細に述べたように、本エッセイは、多くの面でいまだ不十分な理論的仮説であり、数え切れない「穴」を持っている

 

 しかしながら、そのような「穴」が多く認められてもなお、この仮説の持つ意義は否定できないのではないか。というのも、仮にこのような仮説を立つならば、わたしたちは書かれたテクストや言葉にたいして相当に強力な固有性を認めることができるからだ。この仮説によれば、現実世界があってテクストや言葉がそれを記述するのではなく、テクストや言葉のほうが現実世界それ自体を形成していると見なされる。とするなら、数千年前の古文書を読み解くことは、まさしくこの世界の存立構造を探求することにほかならず、また、現代の若手の作家が書いた文学作品を仔細に読み解くことは、来たるべき現実世界の在り方を探求することにほかならない

   

 このような「メタ文学論」は、テクストの存在身分や現実世界との関係を可能な限り拡張する可能性を秘めた理論と言えるのではないか。もしこのような可能性と認めることができるならば、「メタ文学論」の試みは、それなりの意義を持っていると言えるだろう。

 

 

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*1:「『ハムレット』は哲学である|NHKテキストビュー」:textview.jp/post/culture/18226