たのしい知識 Le gai savoir

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「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(1)

はじめに

 本エッセイでは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護する仮説を提起したい。

 

    そしてその仮説全体の妥当性は、「テクストは当該事象を「形成する(form)」ものであり、またその意味で、テクストはそれ自体が一個の独立した対象でありながら、同時に、それは当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもある」という命題の真偽によって決まる。そして、本エッセイでは、テクストに固有なこのような性質を「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。

 

 したがって、本エッセイの目的は、このような「テクストは当該事象にたいして超越論的先行性をもつ」という命題の真偽を検討することである。 

 

 なお、こうした仮説は、他の言語に完全に置換することが不可能な、特定の自然言語によって記述されたテクストの存在身分を検討し、また、テクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述することを要請する。ゆえに、それは、規範的で実質的な内容について論じる「規範倫理学」とは異なり、そうした内容を可能としている「そもそもの次元」を問う倫理学が「メタ倫理学」と呼ばれるのと同様に、「メタ文学論」と呼びうるかもしれない。

 

 あるいはそれは、テクストの存在身分や現実世界との関係を、これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠によって基礎付けることから、「文学の基礎づけ仮説」と呼びうるかもしれない。そして、本エッセイにおけるそうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」とは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。

 

(本エッセイで呼称される「文学」「テクスト」などの名称は、ある種の物語形式で書かれた文章だけにとどまらず、広く自然言語で書かれたテクスト全般のことを指す)

 

 

また、本エッセイ(1)-(3)全体の目次は以下の通りである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

  

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1.問題提起と仮説の提示


 わたしたちは往々にして、現実の事象を理解する方法のひとつとして、歴史上の古典的なテクストの読解を有意味なものとみなす。しかし、なぜ目の前に現に生じている特定の事象を理解するために、古典的なテクストを読む必要があるのか。古典的なテクストと当該事象は無関係ではないのか。


 こう考えることはできないだろうか。ときに、古典的なテクストは、特定の事象を説明づけていると見なされるが、しかし実はそうではなく、そうしたテクスト自体が当該事象それ自体を「形成(form)」しているのである、と。その意味において、テクストは当該事象の可能性の条件である

 

 しかし、このような仮定は、一見すると以下のような矛盾をもたらすだろう。

 もしテクスト自体が当該事象それ自体を「形成」するならば、そのようなテクスト以前に、当該事象はそもそも存在すらしていない。ならば、まずはじめに当該事象が存在し、つぎに当該事象を説明するテクストが存在するというのは、事後的にわたしたちが構成した誤った認識にほかならない。先の仮説に基づくなら、事象がテクストに先立つのではなく、テクストが事象に先立つからである。しかし、そうとも言い切れない。

 

 というのも、当該事象が存在する以前に当該事象に関する記述が存在するという仮定は、明らかに日常的な直観に反するからである。ならば、この「文学の基礎づけ仮説」において、テクストと当該事象の成立は同時的である、あるいは時間的な前後関係は一意に規定しがたいものである、とさしあたり仮定しよう。


 だがしかし、そのような前提の変更によって、当該事象に対して先立つわけではないにせよ、当該事象の本質が、テクストのみに特権的に依存するとする仮定は退けられない。いいかえれば、テクストは、生成の順序において当該事象から先立つとは言えないものの、当該事象を可能たらしめ、それが「何であるか」を規定する条件であるという点については依然として変わらない(このことについては、「3. テクストの超越論的先行性の論証」にて詳述)。

 

 よって、本エッセイが提起する「文学の基礎づけ理論」において、「テクスト」とはさしあたり以下のように定義される。

 すなわち、それは「当該事象を「形成(form)」し、一個の独立した対象でありながら、同時に当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもあるもののこと」である。以下、本エッセイでは、こうした当該事象に対するテクストの先行性を、かりに「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。「超越論的」は、ここではおおざっぱに「ものそれ自体の可能性と、そのものの経験の可能性の条件を規定するものに付される形容詞」を意味し、「先行性」をここではおおざっぱに「なんらかの順序において先立っていること」として規定する。すると、「超越論的先行性」とは「当該事象を可能にし、そして、当該事象の経験を可能にする条件として、当該事象に対して先立っている」といった程度の意味として解すことができる。

 
 もしかりにこうした仮説に基づくならば、わたしたちは、特定の事象を理解しようとするとき、その当該事象に対するテクストの超越論的先行性のゆえに、どうしても当該テクストを読まざるを得ない、と考えることができる。そして、そのテクストを読むこと抜きに当該事象に関して理解することは原理的に不可能である、とさえ言える。どういうことだろう?

 

 これは決して荒唐無稽な話ではないし、ある意味では文学研究の普遍性や固有性を擁護するのになかなか手強い論拠ではないか、とおもう。以下、ごく手短にその理由を示す。

 

2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判

1.感覚的経験批判

 第一に、先ほども述べたように、この立場からすれば世界のある種の事象は、それを語る言葉の開発と共に「形成」されたものであると考えられる。仮にこのような前提が真であるならば、もし人が当該事象について知りたいとおもったとき、ひとはそれについて語った当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない

 

 この点についてすこし補足をしよう。
 通常、それ以外の選択肢としては一般に二つのことが考えられる。それは、感覚的経験と理性的推論である。つまり、「当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない」とは、「いかなる感覚的経験や理性的推論も当該事象を知るための手段には決してなり得ない」ことを指している。

 

 まず感覚的経験から。もし先の前提が真ならば、当然のことながら、テクストの外でいかなる人がいつ、どこで、何を経験、観察、知覚しようとも、そうした感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である

 

 というのも、そうした当該事象が「何であるか」を規定するのはテクストのほうであり、そもそもテクストが名指した事象と当該事象それ自体は切り離すことができない。だからこそ、かりにそのような名称で呼称される事象それ自体がどのようであるかを経験的に理解したとしても、それは、当該事象が「何であるか」とは直接的には無関係である

 

 また、おそらく以下のようにも言うことができる。もしかりに、テクストが名指した当該事象と完全におなじ事象を、過去現在未来に及ぶすべての時間と空間のなかから見つけ出すことに成功したとする。それは現に著者が記述した事象と全く同じ事象であると言ってよい。では、それについてのセンス・データは、テクストが記述した当該事象の本質を理解するために直接的に関係があるか

 

 否、そうではない。繰り返すように、かりにそうした完全に同一の事象を見つけ得たとしても、それが同じであるかどうかの基準それ自体は当該事象に関するテクストそれ自体によって規定されている。すなわち、わたしたちは、当該テクストが記述した当該事象を経験を通じて理解し、類似した事象とそれを比較することができるが、その理解それ自体は当該テクストに依存しているのである。したがって、感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である。かりにそうした当該事象と完全に同一の事象を経験したとしても、それは最早当該事象とは別の「何か」だろう

 

2.理性的推論批判

 では、経験に拠らない理性的な推論ならばどうか。わたしたちは通常、経験によらずともある前提が真ならば、その前提から導かれる結論は疑いようもなく真であるとかんがえる。たとえば、前提①「もし犯人であるならば、その時間に殺人現場にいなければならない」と前提②「Aはその時間に殺人現場にいなかった」からは「ゆえに、Aは犯人ではない」という結論を必然的なものとして導くことができる。このような推論は、疑いようもなく妥当な論証形式に則っているからだ。このような推論を用いて、当該事象に関する知識を獲得することは不可能なのか。

 

 不可能ではないにせよ、やはり経験に基づくセンス・データの場合と同様に、直接的には無関係であると考えなければならない。なぜか。

 

 その理由はおもに二つ考えられる。
 第一に、センス・データと当該事象とが直接には無関係であるのと同様に、そのような推論によって得られる知識は、仮にその前提を立てるための仮説が経験に依存しているならば、直接には無関係であると言わなければならない。経験に依存する場合、テクストによる当該事象の規定は必ず個別具体的な当該事象を先立っているからである(このような帰納と演繹を組み合わせた推論形式は、おそらく一般に仮説的演繹法( hypothetico-deductive method)と呼ばれる)。


 ならば第二に、その前提は、経験に依存しないものではありえないのか。おそらくありえないだろう。というのも、当該事象とは、あくまでも現実世界に対して認められる事象のことを指しており、完全に経験から先立つものではないからだ。そうである以上、もし当該事象への理解が理性的推論に基づくならば、その推論を形成する前提はただ経験からのみ得られる。だが繰り返すように、感覚的経験に基づくセンス・データが当該事象に関するデータであるか否かは、当該事象を記述した当該テクストに特権的に依存する。よって理性的推論も同様に、当該事象を知るための選択肢には事実上なりえない。
 
 以上の諸点から、古典的テクストは、当該事象を語る言葉の「用例集」「辞書」である共に、あたかも当該事象を創造した「神の言」(ヨハネ福音書)であるかのようであり、また、そのような当該事象を「形成」する過程自体を記述した「歴史書」でもあるかのようだ

 

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