たのしい知識 Le gai savoir

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「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(2)

 本エッセイは、以下のエッセイの続きである。

 なお、本エッセイでは、本エッセイにおいて主要な論述を行なったのち、「まとめ」の前にいくつかの「補論」を付す。

 

hiropon110.hatenablog.com

 

 

 

 

3. 「テクストの超越論的先行性」の論証

  1. 仮想的反論の提示

 では、テクストの超越論的先行性それ自体はいかにして根拠付けられるのか。

 

 そもそもテクストの超越論的先行性とは、「当該事象のに対するテクストの先行性」のことを指していた。このような先行性は、テクストが当該事象を「形成する(form)」ことに由来し、ここまでの議論は、その前提が真であると見なした上で為されている。では、テクストが当該事情を「形成」しているという前提の正しさはどのように根拠づけられるか。

 この問題に正面から答える前に、別の仮想的な反論に応答することを通じて、この前提の妥当性を幾らか根拠づけたい。その仮想的な反論とは以下のようなものである。

 

 ①古典的なテクストの著者は、何故それ以前には存在しないとされる事象を記述できたのか。②このような論拠は、古典テクストの著者に事象を「無から創造」する権能を認めているのではないか。

 
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 このような批判はありうる。まず、①について応答することはかなり困難である。たしかに、なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか、それは現段階ではおよそ説明することができない。

 だがしかし、②は「文学の基礎づけ仮説」が求める前提とは完全に一致していないため、真ではない反論することができる。

 

    なぜなら、「文学の基礎づけ仮説」において、テクストの著者は当該事象を「創造する(create)」のではなく「形成する(form)」だけだからである。「形成する(form)」とは、言いかえれば「形式(form)」の側面からしか著者が当該事象にコミットしていないことを意味する。もっというと、この前提において、古典テクストの著者は、事象を生み出してたりのではなく、事象を理解する枠組みを提示するにすぎない。

 

    とするなら、そのような当該事象を理解する枠組みとは、当該事象の「形式」のことに他ならない。では、この「形式」とはいったい何か。

 形而上学における理論的な枠組みの一つに、「質料形相論」と呼ばれるものがある。たとえば一個の彫像は、土や石灰といった素材と、彫像という形態によって彫像足らしめられている。もし仮に、彫像が土ではなく木で作られたとしても彫像は変わらず彫像のままだが、彫像の形態の代わりに家の形態が与えられれば、その彫像はもはや彫像ではなくなるだろう。

 このような意味で、当該事象を構成する可視的要素は、著者が当該事象として記述する以前に存在していたと思われるが、しかし、その当該事象の本質は、あくまでもその当該事象の「形式」である枠組みそれ自体のほうにあるとかんがえられる。

 

 とはいえ、このような反論は仮想反論の②にしか答えておらず、①を反論出来ていないという点で、弱い反論である。こうした仮想的反論に完全に応えられないところが「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」の弱点だろう。

 だが仮想的反論に対する再反論によって、すくなくともテクストの超越論的的先行性が「荒唐無稽なもの」ではないと見なすことは可能となった。なぜなら、繰り返すように、文学を基礎づける「テクストの超越論的先行性」とは、当該事象を文字通り生み出すのではなく、それを形成し、そして可能ならしめるような条件としてテクストが当該事象に対して先行していることを意味しているからである。

 

 それゆえ「1. 問題提起と仮説の提示」でも述べたように、テクストと当該事象との時間的な前後関係は同時的か、あるいはそもそも規定することが困難であるが、しかし、そのような時間的な前後関係に関する詳細な規定は「テクストの超越論的先行性」においてそもそも問題とはならない。そのため、テクストが当該事象を「形成」し、そのようなテクストの以前に当該事象が存在していなかったとする議論は、それほど疑わしいとは考えられないだろう。よって仮想的反論の②はである。

 

 そして、もし仮想的反論②が偽であるなら、当該事象に対する「テクストの超越論的先行性」を偽である判断することは認識の原理上、不可能であると見なされなければならない。というのも、ある事象がそれを記述し、名指したテクストによって条件づけられているということは、そのようなテクスト、あるいは言葉によって当の事象を認識している以上、必然的なことだからである。いいかえれば、当該事象を他から区別するという認識自体がテクスト、あるいは言葉による規定に依存する以上、「テクストの超越論的先行性」は、十分に常識的直観に即した理論的仮定であるとかんがえられる。というのも、そのようなテクスト、あるいは言葉抜きに、我々は何を認識しているかどうかさえも定かではないからだ。つまり、我々の認識がテクスト、あるいは言葉の超越論的先行性に依存している以上、先の前提が偽であると判断することは事実上不可能である

 

 よって、「テクストの超越論的先行性」に関する前提は、真か偽のどちらかであるが、たとえ偽であったとしても、わたしたちはそのことを原理的に知ることができないため、先の前提を偽と判断することはできない。したがって、先の前提を偽と判断することは誤りである。とすれば、残された判断は、その前提を真と見なす判断だけである。したがって、先の前提は真である


補論(1)  「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点

 本エッセイで論じた「文学の基礎づけ仮説」は、かりにその仮説が要請する前提を真であると見なさなくとも、つまり基礎的な原理(テクストの超越論的先行性)を正当化せずとも、その妥当性を認めることは可能である。その場合、その妥当性は、本仮説が現実におけるテクストと事象との関係を整合的に説明し得ると見なせる場合にのみ限定される。つまり、現実世界とテクストとの関係を説明するのにこの仮説が有用である場合、その仮説の妥当性は幾らかなりとも保証される。

 

 その際、「文学の基礎づけ仮説」は、テクストと現実世界との関係を整合的に説明することができるという比較的ゆるい意味において「文学の整合仮説」と言い換えられるかもしれない(もちろん、本来の意味での「真理の整合説」は、それ以外に理論を構成する命題間の整合性をも要件とするが)。

 

 たとえば、本エッセイで論じた「メタ文学論」は、なぜ古典が「普遍性」を持ちうるのかについて、有力な理論的枠組みである見なすことができる。以下、その根拠を明示する。

 

 素朴に考えれば、特定の事象を説明するための理論は、そうした特定の事象が消失した時点でその有用性が失われると考えられる。特定の事象は必ず特定の時空のうちで起こるため、それを説明する理論の有用性は必然的に事象の消失と対応する。また同様の理由により、特定の事象を説明する理論の有用性は、そのような理論が説明される特定の事象とは異なる別の文化社会的状況においては、有用性を持たない。

 

 だが現実はそうではなく、いわゆる「古典」と呼ばれるテクストは、いつ・どこの国や地域であれ繰り返し読まれる。とするなら、テクストは、かりにそれがある特定の諸事象を説明づけるものであったとしても、それは説明づけた個別的な事象を越えて、以後それ自体として自立し、わたしたちの関連事象の理解にたいして甚大な影響を及ぼす

 

 そして、「文学の整合仮説」は、そのような経験的な事実を説明する理論的枠組みとして優れている。なぜなら「文学の整合仮説」は、個々のテクストの内容に踏み込まず、あくまでテクスト一般の形式的な側面からのみテクストの「普遍性」を説明するからである。
いいかえれば、「文学の基礎づけ仮説」は、いかなる個別的な事象の生滅とも、あるいはテクストの個別的な内容とも関係なく、古典が読み継がれる理由を説明することができる

 

 対して、個々のテクストの内容からそのテクストが「普遍性」をもつことの意味を探ろうとする議論は、そのテクストの個別性に引きずられ、なぜ当の事象が過ぎ去ってもなお、そうした当該事象を記述したテクストが読み継がれるのかに関して、絶対的に確実な根拠を提示することができないだろう

 

 よって、本エッセイが論じた「メタ文学論」は、「文学の基礎づけ仮説」としてではなく、「文学の整合仮説」として評価できる余地がある。

 

(とはいえ、このような「基礎づけ主義」と「整合説」に関する議論は表層的なものにとどまっており、この論点を検討するためには、より厳密な「知識の哲学(philosophy of knowledge)」の理解が必要とされる)


補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ

 そのほかに、「文学の基礎づけ仮説」は自然化が可能なものであるとかんがえる立場を想定することもできる。その際、「文学の基礎づけ仮説」には、本エッセイにおいて問われることのなかった別の隠れた前提があると見なすことが必要だろう。その隠れた前提とは、「当該事象はそれを記述した自然言語の固有性に立脚しており、よって人工言語によって再記述は出来ないし、他の自然言語によっても完全に再記述できない」という前提である。

 

 このような前提がもし真であるか偽であるかを調べるためには、われわれは「テクストの超越論的先行性」の妥当性について検討する際、そのようなテクストを構成している自然言語の構造を調べること、あるいは、言語を用いる際の我々の認知のあり方を調べることが重要な課題となるだろう。そのような研究は文学研究者のみならず、認知言語学者や心理学者といった経験科学者によっても為される必要があるだろう。

 よって、 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地を持っていると言わなければならない。

 

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