たのしい知識 Le gai savoir

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ことば|記憶|アーカイブ

「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示──大岩雄典「スローアクター」評

 本記事は、2019年の2月9日から3月2日まで駒込倉庫にて開催された、大岩雄典「スローアクター」の展評である。大岩のプロフィールと本展の概要については、以下の特設サイトの紹介を参照。

 

大岩は2017年の第4回CAF賞海外渡航費授与賞授賞をはじめ、日本のコンテンポラリーアートシーンで注目を集めている作家です。大岩はこれまで、映像、レディメイド、ペイント、テキストなど様々な媒体を用いたインスタレーションを発表してきました。

 

映像やインスタレーションの形式に、物語論言語学、ゲーム研究への見識、また時間にかんする固有の哲学的視点を導入してつくられる大岩の作品は、美術としての同時代性だけでなく、哲学思想や文学にも通ずる射程をもち、同世代の作家のなかで特異な位置にあります。

 

本展は、大岩のキャリアのなかでは最大の規模をもち、二階建の建物全体を活用して構成されています。「水」と「落下」というキーワードで、個人の身体と美術史の記憶とを結びつけながら、〈時間〉と〈物語〉を人が感じ取とる機微をめぐって、作品は展開されます。

 

大岩の作品展示に加え、建築家・奥泉理佐子が会場構成に介入することで、展覧会は成立させられます。奥泉も大岩と同様に多くの言葉を用いますが、奥泉のそれは、光や距離など非物質的な要素と、建築の物質的で実体的な要素とを結びつけ、認知空間を構築していくことを特徴にもちます。

 

企画構成は、建築や美術の制作・理論研究者として活動している砂山太一が担当します。砂山は、これまでに情報化以後の情報と物質のあり方に言及する展示企画をおこなってきました。

 

大岩の作品態度がそうであるように、本展は大岩の作品を契機としながら、空間設計、トークイベントやアーカイブ企画など、多くの分岐点を設置し、展覧会自体にあらゆる情報の経路を作り出すことを目的とします。*1

 

 

異なる時空間の配置、認識のバグ、鑑賞者と作品の相互包摂関係

 駒込倉庫の入り口に入ってすぐのところに、割れた花瓶の破片が散らばっている。そして、その頭上階はガラス張りになっており、そこにも同様に、おなじ形をした花瓶がもうひとつ置かれている。


 頭上と地上に置かれた、割れていない花瓶と割れて散った花瓶。これらのオブジェは、その異なる時空上の配置関係によって、あたかも同じひとつの事物の、時間的には異なるふたつの現れであるかのように知覚することを、鑑賞者に強いる。このとき、鑑賞者の視線の運動は、異なるショット同士をモンタージュするカメラのようなものとして二つのオブジェ同士をつなぐ。

 

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 入り口付近、頭上と地上に配置された二つの花瓶

 

 このことに関連し、現代芸術復興財団によるインタビューにおいて、大岩は以下のように述べている。

 

展覧会とは、ものを並べる仕事だと思っています。時空間に並んだものをどうしても鑑賞者が結びつけないといけない。結びつけるという、インスタレーションや展示に要求される意識が、その対象自体をどんどんずらして落下させていく。たぶらかされていく。ここで立って見ているものはどこまで意図されたもので、どこまでモンタージュされたものかについて、鑑賞者は再検討しなければならなくなる。そのとき、落下のあわいに、落下を可能にする落差が見えるんです。鑑賞とは、連鎖する踏み外しです*2*3

 

 「スローアクター」において、鑑賞によって異なるオブジェ同士を結びつけるこのような認識の「バグ」は、展覧会を構成する素材であり、また、そもそもこの展覧会は、そのようなバグの発生をあらかじめ組み込む仕方で設計されている。

 

 それゆえ、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を見ると同時にその作品それ自体を成立させ、他方で作品は、見られると同時に見ることそれ自体を可能する。そのような本展覧会における鑑賞者と作品の関係は、ミッシェル ・セールが「袋詰め」と呼ぶ相互包摂の関係、すなわち、互いが互いを自ら自身のうちに含みこむ相互的な入れ子関係として常にすでに成立する。

 

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通常の入れ子関係を持つマトリョーシカ。しかし相互包摂的な袋詰め構造において、一方は他方を包摂すると同時に、他方もまた一方を包摂する。(https://absurdopedia.fandom.com/wiki/Матрёшка)

 

 そもそも、通常の美術作品と鑑賞者との関係において、まず作品が存在し、次にその作品を鑑賞する者として鑑賞者がおかれると通常は見なされる。

 

   しかし、「スローアクター」において、鑑賞者と作品との関係の成立は同時的であり、のみならず、両者は互いを互いの成立条件として、あたかもウロボロスの輪のように循環しつつ際限のない入れ子関係を形成し、そして「鑑賞者と作品」という共犯関係へと「落下」していく

 

 「スローアクター」では、このように一見すると奇妙でパラドクシカルな事態を成立させるトリックが、至るところに編み込まれている。

 

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一階、瓦礫の山の上でループされた音声を再生し続けるプロジェクターと、奥の階段

 

折り重なるマルチタブ・ブラウザと境界のあわいへの「落下」

 また「スローアクター」において大岩は、「落下」「水」「ズレ」「ループ」といった要素を、空間やインスタレーションなどを取り結ぶモチーフとして選択し、配置している。


 たとえば、駒込倉庫という二階建ての建築のうちで、鑑賞者は、瓦礫の山が無造作に置かれ、ループする音声が無機質に鳴り響く薄暗い一階から、階段を登って映像作品が置かれた手前のスペースへ、そして差し込んだ灯りがカーテン越しに揺らめきながらガラスへと反射し、その灯りに照らされるオブジェとペインティングが配置された奥の展示スペースへと移動する。

 

    その際、そのような時間の経過に伴って鑑賞者のうちで蓄積される鑑賞経験によって、建築物・映像・音声・オブジェ・ペインティング・階段・光と影といった展覧会の構成要素はみな、それらのモチーフを介してバラバラでありながらゆるやかに関係しあう

 

    あるいはまた、「対象自体をどんどんずらして落下させていく」という鑑賞行為によって、展覧会の構成要素は、あたかもマウスのクリックによってディスプレイ上に大量に開かれたマルチタブ・ブラウザのように、異なるリアリティの平面同士として、完全に一つに溶け合うことなくバラバラなまま折り重なる


 その意味で、一見して簡素で静かな佇まいであるこの展覧会には、高密度な関係のネットワークが張り巡らされている。

 

    そして、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を鑑賞していくうちに、現在・過去・未来、ここ・あそこ、リアル・ヴァーチャルといった境界のあわいへと足を「踏み外し」て「落下」し、また、そのことを通じて「たぶらかされていく」。*4

 

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二階。順に《SURVIVED BALL FROM NAGAWARA》,《SURVIVED BALLS FROM NAGAWARA》,《EVENTUALLY EVEN》

 

「何らかの痕跡を消したり、あるべき姿をずらすこと」としての「落下」

 先ほどの大岩の発言からも分かるように、本展覧会においては、それらのモチーフのうちでも「落下」のモチーフに特権的な役割が与えられている。

 

 たとえば、ループされる音声や映像インスタレーション《EVENTUALLY EVEN》

において、幾度として反芻され参照される20世紀フランスの画家イヴ・クラインは、《虚無の飛翔》では高階から外へと身を投げ出して「落下」するが、それは実際のところ単なる見せかけ(フェイク)にすぎない

 

イヴ・クライン《虚無への飛翔》は、作家自身が二階から跳び上がる瞬間を撮った写真作品ですが、実はこの写真は合成写真でした。地上にクラインを受け止める人々が写っていたのをすげ替え、あたかも「空」へと作家が飛ぶように見せたものです

 

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《虚無への飛翔(空虚への飛翔)/Leap into the Void》http://www.yvesklein.com/en/oeuvres/view/643/leap-into-the-void/


 こうした《虚無への飛翔》を大岩は、「本来の力のやりとりではなく、そこで力が起こったかのように見せかけてしまうこと自体」として解釈し、また、《虚無への飛翔》という題名における〈虚無〉を「何かの痕跡を消したり、あるべき姿をずらしたりすること」と見なす。

 

  とするなら、そのような虚無への「落下」とは、一見して互いにクリアーに分離している二つの現象・状態・事物が、分離しつつも類似・錯認によって折り重なり、鑑賞経験のうちで不可視に関係付けれることであり、あるいは、そうした現象・状態・事物を隔てる境界そのものが鑑賞経験のうちで組み替わることではないか。

 

 「スローアクター」において、そもそも重力による垂直運動である「落下」は、相互に分離した現象・状態・事物が類似・錯認によって折り重なりつつも、その境界を撹乱しつつ組み替えることである。こうした「落下」は、空間的には水平に配置されたオブジェ同士の関係や、映像作品内部で展開されるモチーフとオブジェクトのモチーフとの関係に適用され、また、鑑賞者の背後にあるキッチンをバグの生じたコンピューターでコピー&ペーストしたかのように描かれたペインティング《OUTSIDE IS VIVID》と、現実に背後に存在するキッチンとの関係に適用される。

 

    のみならず、こうした「落下」において、あらゆる境界は静かに撹乱され、組み替わりつつも、同時に物質それ自体としてのオブジェクト同士は混ざり合うことなくキレイに切り離されている、という奇妙な事態が成立する。

 

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二階奥の展示スペース。不可視な落下が交差し合う。ペインティングは《OUTSIDE IS VIVID》

 

<見る>ことを彫刻し、多方向性の「落下」を配置する、「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示


 このように、本展覧会において配置された「落下」を誘うトリックは、実際の落下に伴う上下運動のみならず、オブジェ間との関係や時間的な前後関係、あるいは現実の事物とそれをコピーしたヴァーチャルなイメージとのあいだに認められることから、それは、エッシャーの《相対性》のように上・下、右・左、前・後ろ、奥・手前など、あらゆる方向に配置された多方向性の「落下」を誘うトリックである。

 

   そこでは、さながら熱を欠いた冷たい『不思議の国のアリス』のような、パラドキシカルな多次元宇宙が静かに、かつ不可視なものとして鑑賞者と作品とのあいだで展開される。

 

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《相対性》,1953年, All M.C. Escher works © the M.C. Escher Company B.V. -Baarn -the Netherlands. Used by permission. All rights reserved. www.mcescher.com

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Lewis Carrol:Alice's Adventures in Wonderland(https://greenonionblog.com/2017/03/06/alices-adventures-in-wonderland-by-lewis-carroll/

 

    そして、そのようなイヴ・クラインの思考を「プラグインのように導入」しようとする大岩は、そうした「落下」のうちでも、異なる時空同士を結びつけるような「落下」に着目している。

 

イヴ・クラインの考えていた時空間、時間的な虚無の発生をいかにインスタレーションの形式で再考し、実践化できるか。クラインを参照して、〈ものを展示する〉という独特な形式を、時空間の問題として緻密に取り上げるというのが、彼をモチーフとして採用した理由です

 

 そのうえで大岩は、各鑑賞者が自らの鑑賞行為によって作品や作品同士の関係を変容させ、また、それによって、鑑賞者自身の認識の枠組みそれ自体が変容してしまうような本展覧会の鑑賞経験を、「彫刻」という言葉で表現している。

 

展示というのは一挙にフラットに見えるものではなく、そもそも当の展示自体を、鑑賞者自身がどう見ることができるものなのかを彫刻していくようなものだと思います。見ているなかで、その見方自体がどんどん変わっていく。展示を見終えてもその人の見方自体が彫刻されて、変えられてしまうんです

 

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《MIRACLE OF NIAGARA》など、<水>たまりの上にいくつかのモチーフが浮かんでいる。

 

    本展覧会において、<見る>ことを彫刻し、そして、そのような<見え>を経験する自ら自身をを彫刻するように誘うさまざまな「落下」、あるいは≪虚無への跳躍≫のトリックは、あたかも美術作品の周りに張り巡らされた不可視な赤外線センサーのように、本展覧会の至るところに張り巡らされている。

 

 そして、本評で何度も述べたように、そのような「落下」のトリックはあくまで不可視なものであり、物質それ自体としてのオブジェ同士はキレイに分離し合っている

 

 つまり、一方で物質それ自体としてのオブジェは互いに分離しつつも、他方で鑑賞者と作品とのあいだで更新され続ける関係付けのフィードバックループにおいて、それらは融和し、混ざり合う。

 

 ゆえに、「スローアクター」において同時に経験される分離と融和の経験は、鑑賞者に対して、あたかも徐々に心身を蝕んでいく奇妙な毒のようなものとして作用する。

 

「スローアクター」という語は、毒や薬の性質である「即効性(immediate acting)」「遅効性(slow acting)」に由来しています。大岩さんは「immediate」は「media」に否定の接頭辞「in」が付いたものであることに注目します。つまり即効とは「中間物=media」がないものですが、しかし美術の実践とはむしろ何らかの媒介のうえに成り立たせるものです。そこでは常に理解のための時間を要し、「その時間のあいだに、理解・見方は当の対象によって更新される」──それゆえに美術は「slow acting」なのだと言います。

 

 幾つもの「中間物=media」を介在させることで、経験を更新させると共に遅延させ、また、多方向性の「トリック」によって鑑賞者を宙吊りにさせる「スローアクター」の展示は、展覧空間のなかだけにとどまらず、<見る>ことを中心とした知覚経験を組み替え、拡張する

 

 またそれによって、日常的な現実それ自体も同様にあたかも大量のブラウザが開かれた折重なり合うスクリーン画面のようなものに変容させ、組み替えてしまう。徐々に徐々に、あるいは気がつけばすでに、かつ決定的に。

 

 そのような「スローアクター」の展示は、まさしく「遅効性(slow acting)」ドラッグにほかならないだろう。

 

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*1:http://euskeoiwa.com/2019slowactor/

*2:

https://m.facebook.com/notes/contemporary-art-foundation公益財団法人-現代芸術振興財団/caf-note-vol-2-大岩雄典さんcaf賞2017-海外渡航費授与/2238328059741720/

*3:本評における大岩からの引用は全て、注1のインタビューからの抜粋。なお、太字は全て筆者によるもの

*4:前引用での「たぶらかされていく」の主語は明記されておらず、前文の主語である「対象」が「たぶらかされていく」とも見なせるが、むしろ鑑賞者自身の方が作品とのあいだの鑑賞関係によって「たぶらかされていく」と解釈することもできる。