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ことば|記憶|アーカイブ

『欲望会議』出版記念イベント メモ(1/31) 【イベントレポート】

本記事は、ゲンロンカフェで一月三一日に行われた『欲望会議』(KADOKAWA,2018)の出版記念イベントのメモである。なお、このメモは、その場で取った記録を下敷きとしているが、どの発言がどの登壇者と対応しているかを記録していないため、あくまで本メモはイベント全体における流れの中から幾つかの論点を抽出し、それを敷衍するという叙述の形式を採用しており、発言を個別の登壇者と厳密に対応させない。その意味で資料的な価値は低く、その場で語られたことの内容を若干伝える程度のものであることは予め了承されたい。

 

脱規範化の流れ


・登壇者らによれば、90年代には宮台真司のナンパ肯定論のように、脱規範化を肯定するような議論がまだあった。当時からそうした脱規範化を肯定するような議論と距離を取る流れはあったが、しかし、本当に宮台的な脱規範化肯定論の力が落ち、「学級委員」的なものが台頭するようになったのは最近のこと。たとえば、90年代にゲイ・リブを牽引し、そして『欲望問題』でゲイの欲望の問題に正面から向き合った伏見憲一なども、90年代の非「学級委員」的な言説の一つだった。『欲望会議』の先行研究は『欲望問題』。90年代の『欲望問題』や上野千鶴子の『発情装置』などは、社会的公正から取りこぼされてしまう当事者のドロドロした欲望を正面から扱っており、当時のフェミニズムクィアスタディーズには、社会的公正の流れと各人の欲望を肯定する流れという二つの流れがあった。そうした歴史的背景を全て捨象してしまうから、柴田英里の言説が何故フェミニストの立場であると言えるのかが理解できなくなる。

社会規範を疑うフェミニズム


・そもそも、フェミニズムには社会規範・道徳規範そのものに対する意義申し立てを行ってきた経緯があり、規範そのものを疑うということは普通のことだった。仮にそのようなフェミニズムを「フェミニズム左派」であるとすると、社会規範・道徳規範の遵守に高い価値を置くフェミニズムは「フェミニズム右派」である。たとえばフェミニズム右派の代表的な例としては、「女性は家庭の天使」という標語で有名なアメリカの「福音主義フェミニズム」のようなものがある。もともと、アメリカはピューリタンの国であったことから、その地で女性が選挙権を獲得するためには、自らがより道徳規範的な存在であることを理由としなければならなかった。しかし、そのような規範的な存在として女性自身を位置づけることは、セックス・ワーカーに従事する女性を「汚い」女性、あるいは女性ならざる女性として排除し、女性同士のあいだで分断を生むこととなってしまう(だが、福音主義フェミニズムがそのような立場を取ることには、社会関係が資本主義によって商行為・商業取引に変質させられてしまうことと関係している。いわば、「家族」は、商行為・商業取引から逃れるための最後の拠点といったものでもあり、家族への回帰は資本主義の流れに対するある種のバックラッシュであると言える)。

魂の殺人


・また、二村ヒトシは「傷つき」というワードを多用するが、もし女性に対してよりそのワードを使っているとするなら、それは規範的な抑圧を性差に基づいて強化していることにならないか。規範的な抑圧を性差に基づいて強化するという意味では、メディアがレイプを「魂の殺人」と形容することもまたそうである。小説家の松浦理恵子もまた「魂の殺人」という言葉を批判しているが、もしレイプが肉体的な傷だけではなく、魂に対する傷であるとするなら、それは肉体の傷よりも永続する傷であり、女性が単に女性であるという理由によって、再起不能な傷をレイプから受けるということになってしまう。それは、男女の非対称に基づいてスティグマを再生産していることに他ならない。

穴秘密と石秘密


・千葉の『意味がない無意味』(河合書房)では、ポスト構造主義以降の言説を整理し、のみならず人間の本質を説明するための概念として、穴と石という二つの概念が導入されている。穴は、ラカン精神分析で言うところの現実界であり、到達することはできないが人間がそれを求めてグルグルと巡り続けてしまうものであるような、心の穴・傷・ブラックホールである。スキーマ療法で言われている「スキーマ」も、実は「穴」のこと。
そもそも精神分析によれば、こうした穴は、子供が母との二者関係から寸断されたときに生じる。そして子供は母の喪失と引き換えに言葉を覚えるが、それは「穴」に対処するため。被分析者は、分析家とのあいだで「穴」をめぐって終わることのない言葉の解釈を行う、これが精神分析の基本的な枠組み。それに対して石は、ただ物質的に存在するものであり、言葉を生産し続けるのではなく言葉を消尽させ、物語とは別の次元に存在する秘密である。石的な秘密には理由がなく、トラウマはそこでは無理由なものでしかない。加えて、穴-秘密をめぐって解釈を延々と行い続けるというのは、どちらかといえば近代的なモデルである。たとえば古代では心身は分離しておらず、人間はあくまで心身のトータル・バランスを調整することによって魂のステージを上げる。後期のフーコーが近代以前の魂のあり方を評価するのはそこと関係している(セネカなどの著作では、怒りをどうやって抑えるかなどの話をずっとしている)。インターネットとSNSの普及は、いわば穴的な傷付きを加速させているのではないか。

 

能動と受動


・また、近代は能動と受動を分け、そして近代における精神は能動であることが自然本性としてプリセットされており、受動になるという経験自体が自然本性に反する「傷つき」の経験となる。このことから、受動を強いられる女性は人間である以上能動でなければならないのにも関わらず、文化社会的な理由によって受動的な立場に置かれている。そのことが「傷つき」の核にあるのではないか。


フェミニズムの歴史的背景


フェミニズムは第一波・第二波・第三波というふうに分けられる。

  1. 第一波フェミニズム:19世紀後半から20世紀前半にかけてのもの。「参政権」獲得をはじめとした社会制度・社会構造改革。「男/女」モデル。
  2. 第二波フェミニズム:1960年代から1970年代。性と生殖の政治学、中絶論争などのリプロダクティブヘルス&ライツ。「男/女」モデル。
  3. 第三波、ポスト・フェミニズム:1980年代以降、異性愛、西洋白人、中産階級中心主義への批判を踏まえたカルチュアル・ポリティクス領域。「男/女」「異性愛者/非異性愛者」「白人/非白人」「中産階級/それ以外」モデル

 

またフェミニズムは右派と左派に分けられる。

右派:保守主義キリスト教福音主義フェミニズム
左派:ラディカル・フェミニズム…「個人的なことは政治的である」(by ケイト・ミレット)公的領域と私的領域における男女の性差の根源を問う。
エコ・フェミニズム…近代資本主義国家において無〔価値されている女性や〕自然の復権。男女の差異視点
マルクス主義フェミニズム…性別役割分担の解体を〔目指す〕。
唯物史観を「男/女」の枠組みの中でも徹底させることを〔目指す〕。男女平等視点。
ポスト・フェミニズムポストモダンクィア・セオリー
「主体/客体」だけでなく「行為遂行体(エージェンシー)」〔を重視する〕。男女の差異視点。

 

フェミニズムはこのように分けられる一方で、所々で重なっているところもある。たとえばポルノ規制問題について論じたマッキンノンは、第二波フェミニズムの系譜でありながら、社会制度改革志向という点で第一波フェミニズムと癒着し、また道徳規範に訴えかけるという点でフェミニズム右派と癒着する。

・柴田英里自身の立場はというと、第三波フェミニズムの亜種。第三波フェミニズムは「男/女」という図式にとどまらず、様々な対立図式のもとに「男/女」という図式を相対化することから、近年では第二波フェミニズムに回帰する傾向がある。しかしそこでは共感中心主義が台頭しやすく、同調圧力による中心/周縁の分割が起こりやすい。
・そもそも、フェミニズムは一枚岩ではなく、むしろ互いに敵対することなども多い。また柴田によれば、保守化した第三波には「学級会」的な人が多く、彼女たちは道徳規範に訴えかけるという点で保守化しており、社会規範自体を疑うという視点がない。
フェミニズムの歴史的背景に関しては、柴田英里が当日使用していたスライドに全面的に依拠している。また、括弧で示した箇所は、写真で撮ったスライドの写真が切れていたため、筆者が恣意的に補った箇所)

 

フェミニズム国家主義との関係

・本当は「コンビニのエロ本撤去」を擁護するような立場だけがフェミニズムではない。表現規制派反対の左派フェミニズムは、基本的にアルチュセールフーコーを前提にしている。フーコーを前提とするなら、共感に基づく問題設定は国家権力が治安を維持するために要請する構築物以外の何物でもない。「コンビニのエロ本撤去」は、2020年に開催される東京オリンピックパラリンピックゆえに為されるのであり、「コンビニのエロ本撤去」を素朴に肯定するフェミニズムはある種の国家主義ではないか。このことは禁煙問題についても同様である。国家構成員である国民がより健康になることを肯定し、健康を規範化することは、不必要な医療費を増大させることなく淡々と労働して税金を納めるような、管理しやすい国民を作ることとパラレルではないか。萱野稔人によれば、そもそも国家とは巨大なヤクザであり、健康増進政策は国家が純粋に国民のためにやっているわけではない。

エモプティコンと優生思想子供の神聖視


・また、健康な身体を規範化することは優生思想と極めて深く関係している。戦時中のナチスの健康政策は非合理的なものではなく、むしろ過剰に合理的なものである。すなわち優生思想とは合理性のある種の帰結である。(アドルノ、ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』と同様の論点)
・対して、セックスは合理化することはできず、仮にそれをしてしまえばセックスはセックスではなくなってしまう。その意味で、性愛と公共性は敵対しあう(と同時に、公共を維持する規範こそが欲望を生産しているという観点もあるため、ことは単純ではない)。
最近出版された『ダークウェブ・アンダーグラウンド』(イーストプレス、2019)では、ドラッグを売り買いする闇のアマゾンの話と、ペドフィリアの問題が扱われている。前者は商行為がそれなりに成立しており、後者は商行為が成立していないほとんど贈与の空間である。ドラッグは闇の石油みたいなものであるが、ペドフィリアグローバリズムの傷・穴として現出しており、本物の複製によって性的に充足するペドフィリアたちは空気をエネルギーにできるような人たちであり、ペドフィリアに批判的な人は、実のところそうしたペドフィリアが羨ましいと思っているのではないか(というふうに指摘することが構造的にできる)。
・また、子供の神聖視は、子供という不気味な存在から不気味さを取り除きたいのではないか。子供が性的な主体であることを否認することは子供の権利を奪うことではないか。当時のマルクスフェミニズムであれば、子供を性の主体として肯定するという理路もあったはず。

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

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欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

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発情装置 新版 (岩波現代文庫)

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健康帝国ナチス (草思社文庫)

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ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち

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