たのしい知識 Le gai savoir

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生殖と性愛の分離と国家への自発的隷属──『殺人出産』評──

今から100年前、殺人は悪だった。それ以外の考えは存在しなかった。私が幼稚園くらいのころもまだ、殺人は悪という考えが根強かった。殺意を冗談めかして言う人はいたが、本気だと捉えると殺人予告と見なされ通報されたりするような、デリケートなものだった。ましてや殺人は、どんな理由があろうと全て罪だった。母からそう教わっていたし、幼稚園で「殺すぞ」なんて言葉を冗談でも口にした男の子は、先生からこっぴどく叱られていた。

 

 『殺人出産』の冒頭、「私」は殺人出産システム「以後の世界」から「以前の世界」を回想する。そして、以下のように回想を続ける。

 

もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精で産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすること、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。偶然的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺していい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。(pp.13-15)

 

 「私」が生きる世界において、生殖技術の革新による性愛と生殖の分離可能性は、直ちに性愛と生殖の分離を事実としてもたらす(p. 14)。つまり、本小説において、生殖は性愛のほかになんら必然的な目的を持たない。「私」たちの世界において生殖と性愛は完全に切り離されているのだ。そうした社会にあっては、旧来の性愛と結びついた生殖の代わりに、「殺人」と結びついた「殺人出産システム」が要請される。愛の代わりに殺意こそが未来の生命をリレーする。あるいは、誰かを愛する代わりに、誰かをに憎しむことが未来の生命をリレーする。そのように、「私」の生きる世界では公的な殺人(=戦争)だけでなく私的な殺人もまた「こわーい」ことではなく「正しい」こととして肯定され、正当化され、そして聖化されている。

 

恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。/日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人口子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。/死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師はいった。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。(p. 15)

 

 生殖技術によって、生殖は、単性生殖として「セクシュアリティの装置」とフーコーが呼ぶ二者の性愛関係から切り離される。のみならず生殖は、「婚姻の装置」とフーコーが呼ぶ「親族関係の固定と展開の、名と財産の継承システム」からも切り離される(フーコー『知の意志』p. 136)。「殺人出産システム」の導入により、生殖は、二つの装置から切り離される。同時に、生殖は、「殺人」という人類史において最も根本的な逸脱行為法と引き換えに「公務」として課される、ある種の公的事業として見なされる。つまり、生殖は、一方で殺人という逸脱行為の実現と引き換えに要求されるが、他方で、それは人口調整・労働者の創出といった、国家の自己保存にダイレクトにコミットし、合理的な仕方で管理される。

 

   端的に言うならば、本小説において、殺すことは産むことであり、産むことは殺すことである。誕生と死は不可分に結び合わされ、そして、それらは、一律全て国家から管理されている。

 

 そもそも、生殖はセックスの非対称性に依存する。しかし、本小説において、生殖機会はセックスとは無関係に均等化されている。そうした社会は、ともすると「人々が安全で満足できる性生活をおくり、 子供を産むかどうか、産むとすればいつ、何人まで産むかを決定する自由を持つべきである」というリプロダクティブ・ライツが万人に認められた、自由で解放的な社会のように見える(The World Health Organization; WHO)。

 

   しかし、そうした社会においてはむしろ、『知の意志』でフーコーが「第二の権力」と呼ぶ権力、すなわち「種としての身体、すなわち生物の力学に縦断され、生物学的プロセスの支えとなる身体」を対象として「生殖、生誕と可死性、健康水準、 長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件」に介入し、管理する「人口(population) の生政治学」が私的領域の細部にまで介入する(ibid, p. 176)。

   いいかえれば、旧来のセクシャリティに基づくリミットやジェンダーの非対称性からの解放は、むしろ国家による私的領域への介入を加速させている。

 

 そして、そのような国家による介入は、外から押し付けられたものではなく、「わたし」たちのうちで肯定され、正当化され、聖化される。たとえば、「私」が面倒を見ている親族のミサキは、衒いなく「私はね、もっと10代の『産み人』が増えたほうがいいって思うんだ。だってそれが社会のためだし」と言い(p. 59)、また代行殺人が横行していることについて、レジスタンスをする同僚の早紀子から問われた「私」は、「経緯はどうであれ、一人死んでも、10人生まれるんだから、別にシステムは崩壊しませんよ。産刑になる人が増えるだけ、子供はさらに増えるし。それも政府の計算のうちじゃないですか」と答える(p. 48)。

 

 さらに、そこに倫理や道徳はあるのかという早紀子の問いに対し、「私」は、「今の人類にとっては、命を絶やさず、増やしていくことこそが倫理なんじゃないですか」と返している(ibid.)。重要なのは、ここで「私」が、「政府の計算」を第二の返答で「今の人類」の話にすり替えているところである。いわば、「私」は、統治者の意思決定を人類の自然な過程としてすり替えているのだ。

 

    また、こうした状況は、たとえば「殺意」という私的な欲求を「世界に命を生み出す養分」として正当化する「私」の姉の態度や(p. 84)、「産み人」に殺された「死に人」を「皆のために犠牲になった素晴らしい人」として祝福するように言うミサキの先生の態度など、本小説の至るところに認めることができる(p. 51)。

 

 問題はそれだけではない。殺人出産システムに否定的な早紀子と肯定的な「私」の姉は、互いに「正しさ」という規範に執着する(p. 46, pp. 84-85)。どういうことだろう。

    こう考えることはできないか。このことは、本小説において、ひとびとがセックスによる生殖機会の偏向から解放され、またそれに伴う社会的紐帯から解放されると同時に、自らの行為を自己決定の結果と見なすことで、根拠の自明性が絶えず宙吊りに晒されていることを示している、と。いわば、自明な根拠の欠落のゆえに、ひとびとは国家の自己保存を人類史的過程として合理化し、それに服従することを欲望せざるを得ない状況に実のところ追い込まれている(社会的紐帯を失った孤独な群衆が全体主義を欲求するのと同じように)。

 

 あえてベタに読むならば、本小説は、我々のアイデンティティを外的に拘束する生物学的性差と、ジェンダーの非対称性からの解放が、逆説的に国家への自発的隷属を促すというアイロニカルな事態を、SF的想像力によって立ち上げ、我々の前に突きつけていると言える。

 

文献 

村田沙耶香『殺人出産』(講談社、2014)

フーコー『知への意志』(新潮社、1986)

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)