「カントってどういう哲学者なの?」と聞かれたときのために【論考】
本記事は、18世紀のドイツで活動した哲学者であるカントが、一体どのような哲学を構想していたのかについて、その最も基本的な大枠を提示するものである。
哲学にあまり詳しくない人でも、カントの名前を聞いたことがある人は多いだろう。哲学史において、カントの登場は、その後の哲学史に決定的な影響を与えた──なんとなくそのようなことをどこかで聞いたことがある人もいるだろう。というのも、そのような説明は、哲学史におけるある種のクリシェであるからだ。が、その哲学の内容を説明せよと言われ、整合的で基礎的な説明を即座に与えられる人はそこまで多くないだろう(いつの時代の・誰の哲学でも同様かもしれないが)。
本記事では、カントの哲学の特徴を幾つかピックアップし、ごく簡単な説明を与えている。ところどころ筆者の手による図を補ってもいる。「厳密なテクスト・クリティークなくして人文学研究は成り立たない」ことは確かだが、ざっくりと流れを押さえるという意味では、このような一見して雑でラフなまとめも、時として役立つはずだ。より内容が気になる人は、引用文献に当たると良い。
(また、筆者は、大学内でカント哲学の読書会をインフォーマルに行なっており(2019年2月現在)、学生・社会人問わず参加できるようにしているので、もし参加されたい方がいればツイッター・アカウントからDM等でお声掛けください。日本語で読んでいます。オンライン可)
① カントの経歴
イマヌエル・カント(1724-1804)
ドイツの哲学者。ニュートン物理学やルソーの人間主義など、当時の新しい思想の影響を受けながら、近代的な世界市民の立場から、ライプニッツ=ヴォルフの合理主義的形而上学とヒュームの経験論という思想対立を克服し、伝統的形而上学に代わる批判的形而上学を基礎づけた。広い学問領域を自由で自立的な人間理性の上に基礎付けたカントの思想は、ドイツ観念論、新カント学派などを経て、現代にいたるまで大きな影響を及ぼしている*1。
→カントは、合理主義と経験論の対立を克服し、批判的形而上学を基礎付けた哲学者。
② コペルニクス的転回とは何か?
コペルニクス的転回…カント自身の立場を特徴づける術語。
「日常的な物の見方は、対象がまずあって、認識がそれに従うという暗黙の態度の上に成り立つが、〔カントの立場である〕超越論的観念論はそれを逆転させ、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とする」。*2
そのとき、認識は「経験とともに始まる」が「経験から生じるのではない」。*3すなわち、カントにおいて、客観的妥当性を持つ対象(Object)とは、ありのままの「物自体」ではなく、認識能力によって規定された「現象」と見なされる*4。
ゆえに、カント以前と以後では認識の構図が全く異なる
③ カントにおける認識能力とは何か?
- 感性…「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)が、感性と呼ばれる」*5
- 悟性…「表象(概念)をみずから生み出す自発性」*6
- 理性…「われわれのあらゆる認識は感官から始まり、そこから悟性へと進み、理性のところで終わるが理性を越え出ては、直観の素材を加工してそれを思考の最高の統一のもとへもたらす高次のものは、何ひとつとしてわれわれにおいては見いだされない」*7。あるいは、「悟性が規則を介して諸現象を統一する能力であるとすれば、理性は諸悟性規則を原理のもとへと統一する能力である」*8。
- 認識能力同士の関係…「カントによれば、悟性〔悟性と理性〕と感性は経験論と合理論双方の見方に反して表象の全く相異なる源泉であり、しかも認識は本来、この二つの異種の能力の協働によってはじめて成立する」*9
→感性が受容の能力であり、理性が統一の能力であることから、このように図式化できる。しかし、とはいえ現象の認識それ自体はあくまでも認識能力同士の協働関係によってのみ成り立つ。
④ 哲学史におけるカントの立場
- ア・プリオリかつ分析的な判断…述語は主語に予め含まれており、その判断は経験に先立っている
- ア・ポステリオリかつ綜合的な判断…述語は主語に予め含まれておらず、主語に付加される。そして、その判断は経験に依存する
-
カントの立場…カントは、予め主語に含まれていないが、とはいえ経験に先立つような「ア・プリオリな総合判断」があり得ると述べ、それによって、合理論とも経験論とも異なる自らの超越論的観念論という立場を主張する*10。
⑤ 独断論から懐疑論、そして批判主義へ
独断論…ア・プリオリな分析判断を学の根底に置き、それによって形而上学が探求できると見なす立場。
- バウムガルデン…「同一のものが、同時に、存在しかつ存在しないということは、ありえない」*11という矛盾律の原理を前提とし、「矛盾を含むものは不可能なもの(存在しえない)であり、矛盾を含まないものは可能なもの(存在しうる)ものである」と見なすことで、「矛盾を含まないもの=可能なもの」とし、矛盾律を形而上学の第一原理と見なす。
- 独断論についてのカントの立場…「〔独断論は〕形而上学において純粋理性を批判することなく成果を収めようとする偏見」[B XXX]。カントによれば、独断論は理性が何を・いかに・どこまで認識できるのかに関する「理性能力についての先行する批判」を欠いている*12。
懐疑論…ア・ポステリオリな総合判断を認識の根底に置く立場。それゆえ、神のような超越的存在を理性によって認識しようとする独断論は誤っていると主張。
- ヒューム…因果関係の「必然的結合」は、二つの出来事がかつて隣接・継起して生じたという経験を一般化した結果生じておりであり、そのような判断は「理性の越権行為」であると見なす。
- 懐疑論に対するカントの認識…「懐疑論は人間理性にとって休憩の場所である。というのも理性が自分の独断的なさまよいから目覚めることができるからである」*13と述べる一方で、「懐疑的に反駁することは、それ自体としては、われわれは何を知ることができるのか、また反対に何を知ることができないかということについて、何も決定しない」*14ため、「懐疑論は、そこに滞在するための居住地ではない」*15。
批判主義…ア・プリオリな総合判断を認めるカント自身の立場。「形而上学に属すことなら何であれ、それを扱う場合の批判主義は、(猶予の懐疑は、)形而上学の綜合的命題すべての可能性の普遍的な根拠がわれわれの認識のうちは、そうした命題全体を信用しないという確率である」[ⅥⅠⅠ 226f.]
- 批判とは何か…「理性〔=広義の悟性〕がすべての経験に依存せずに切望するすべての認識に関しての、理性能力一般の批判のことであり、したがって、形而上学一般の可能あるいは不可能の決定、またこの形而上学の源泉ならびに範囲と限界との規定」。*16
まとめ
従来の哲学が理性に基づいて形而上学を探求していたのに対し、カントは「私は何を知ることができるのか」*17 という問いを根本問題と見なし、理性を含む認識能力について反省的に検討することを通じて、形而上学一般の可能・不可能や源泉・範囲・限界を規定する。そのような営みは「批判」と呼ばれる。
批判において、カントは「われわれの認識が対象に従う」のではなく、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とする「思考法の転変(=コペルニクス的転回)」を洞察し、我々において客観的妥当性を持つ対象(Object)は、「物自体」ではなく認識能力によって規定される「現象」であると見なした。
また、カントは、認識能力を、上級認識能力である悟性と下級認識能力である感性とに分割し、両能力の協働によって認識が成立すると述べる。そして、カントは自らの哲学を超越論的観念論と呼び、哲学史に置いて他の立場と自らを区別している。その際、カントは分析と綜合、ア・プリオリとア・ポステオリという四象限に基づいて自らの立場を弁別している。
このような問題構成のもとで、カントは、『純粋理性批判』において「感性と悟性、経験と理性、経験論と合理論とを媒介し調停しようと」していると考えられる*18。
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*2:『カント事典』p. 184
*4:カントは、我々にとって認識可能な対象は物自体ではなく現象であると見なす。では、それは「存在とは知覚されることである(世界に存在するのは我々にとって知覚される観念だけである)」とするバークリの主張とどう違うのか。それについては『プロレゴメナ』「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の注を参照
*5:[B 33]
*6:『カント事典』、p. 180
*7:[B 355]
*8:[B 359]
*9:『カント事典』、pp. 180-181
*10:
「超越論的」とは「対象にではなく、むしろ、対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に係わるすべての認識」のこと[A.11f]。また、「超越論的観念論」については以下を参照。
「カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観である」(『世界大百科事典』第二版、平凡社)
*11:ヴォルフ『第一哲学』
*13:[B 789]
*14:[B 791]
*15:[B 789]
*16: [A XII]
*17:[B 833]
*18:『カント事典』、p. 246