たのしい知識 Le gai savoir

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手をあげる-手があがる=?(『それは私がしたことなのか』第一章と第二章)【書評】

 本記事は、古田徹他『それは私がしたことなのか  行為の哲学入門』(新曜社、2013年)の第一章と第二章のメモである。本書は三章構造になっている。著者がエピローグでも述べている通り、第一章と第二章はいわゆる「心の哲学」と関連しており、第三章は「責任」「義務」「過失」「罪」などの概念を扱う、いわゆる「倫理学」の議論と関連している。著者は、行為論を「心の哲学」と「倫理学」という二つ分野にまたがる分野である、と述べている。本記事では、「心の哲学」に関連する箇所だけをメモする。

 

 

第一章 行為の意図をめぐる謎

1-1行為とは何か、あるいは意図とは何か

「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』、第六二一節) 

 行為とはなんだろう。一般に、行為は「自分の自由な意思で何らかの目的を達成しようと試みること」であるが、それは単なる出来事とは異なり、行為者の「意志」「意図」「主体性」などが含まれる。「手があがる」ことが単なる出来事なら、「手をあげる」ことは行為だ。主に英米で議論されている「行為の哲学」は、先のヴィトゲンシュタイン の問いによって始まった。

 行為に関わる心の働きは意図(intention)・欲求(desire)・信念(belief)の三つに分けられる。たとえば「トンカツを食べる」という行為には、それが可能だという「信念」がまず要される。(その信念が正当化されたなら、それは「知識」と呼ばれる)そして、その行為が欲求され、意図されることで、「トンカツを食べる」という行為が実現する。ただし、欲求のあとに必ず意図が来るわけではなく、また意図のまえに必ず欲求があるわけでもない。意図はある行為にコミットメントするものであり、欲求はそうではない。三者の関係は以下のように図式化される。

 

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(本書、p. 11の図) 

 上記の図を前提とした上で、再度行為を定義するなら、それは「欲求の有無に関わらず、実行することが可能であるという信念を持って何らかの目的の達成を意図して試みること」であると言える。

   次に、上記の図からも分かるように、行為には必ず意図が必要とされている。だが、そもそも意図とは何か。

 仮に「手をあげよう」と内言することや、それをイメージすることが意図することであるとする。しかし、そうした内言・イメージは一つの独立した行為ではあれど、実際に「手をあげる」ことの原因ではない。というのも、「手をあげよう」と内言しつつもそうしないことが我々には常に可能だからだ。加えて、もしそれらが独立した行為であるなら、その行為にも意図が必要である。すると、「意図すること」には更に別の意図が必要になる。そして、またその別の意図にも同様に意図が存在し、以下、この意図は基礎付られることなく無限後退する。このように、意図を行為の原因と素朴に見なすことには何かしらの困難が存在する。かといって、行為の意図に内言やイメージが介在されないならば、我々はそれを想像することができない。そうした「謎の出来事」が行為の原因であると見なすためには、然るべき根拠が必要だが、「謎の出来事」にはそれが欠如しており、説明として適切ではないと本書では見なされる。

  心の働きの一種である意図が行為を引き起こす──通常ならばそう考える。だが、そもそも「心の働きが出来事を引き起こす」というモデル自体に問題があるのではないか、著者の古田はそのように述べる。心身問題の歴史はデカルトにまで遡る。

1-2 心身問題の歴史と「機械の中の幽霊」

 デカルトは思惟実体と延長的実体を実在的に区別したが、それによって、自然の機械論的な因果連鎖に心の働きが如何に作用するのかという「心的因果」の問題が浮上した。そのような心を、イギリスの哲学者であるギルバート・ライルは「機械の中の幽霊」と呼ぶ。

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 (本書、p. 34より)

 

 デカルトは、心的因果をそれ自体疑うことの出来ない原始的事実と見なしたが、ライルは、デカルトのように心を実体化する考えを「カテゴリー・ミステイク」を犯していると批判する。ライルによれば、カテゴリー・ミステイクとは異なるカテゴリーを混同することである。カテゴリー・ミステイクについて、ライルは以下のように述べている。

 

ある外国人がオックスフォード大学やケンブリッジ大学をはじめて訪れ、まず多くのカレッジ、図書館、運動場、各学部、事務局などに案内されるとする。そこでその外国人は次のように尋ねる。「しかし、大学は一体どこにあるのですか。私はカレッジの構成員がどこに住み、事務職員がどこで仕事をし、科学者がどこで実験しているのかなどについては見せていただきました。しかし、あなたの大学の構成員が居住し、仕事をしている大学そのものはまだ見せていただいておりません」。この訪問者に対しては、この場合、大学とは彼が見てきたカレッジや実験室や部局などと同列の別個の建物なのではないということを説明する必要がある。まさに彼がすでに見てきたものを組織立てる仕方が大学に他ならないのだ。すなわち、それらのものを見て、さらにそれら相互の間の有機的結合が理解されたときにはじめて、彼は大学を見たということになるのである。彼の誤りは、クライスト・チャーチ、ボードリアン図書館、アシュモレー博物館、そして大学というように並列的に語ることができる、と考えた点にある。…すなわち、彼は大学というものを他の諸々の建物が属しているカテゴリーと同じカテゴリーの中に組み入れるという誤りを犯したのである。(ライル『心の概念』、みすず書房、pp. 12-13)

 

ライルによれば、身体と心という二つの実体を措定するのは誤りであり、「行為とは傾向性が発現することである」という。心の働きは傾向性と見なされ、身体の動きはその発現と見なされる。このような立場は、心を客観的に観察可能な様々な振る舞いや変化と見なす点で「行動主義」と呼ばれる。行動主義は、デカルトが唱えた「動物機械論」の延長線上に人間を位置づけるため、それはある種の「人間機械論」のプロトタイプであると本書では位置付けられる。

 また、「身体を動かす幽霊のような働きなど存在しない」というのがライルの立場なら、「そもそも心など存在しない」というのが「物的一元論」であり、「消去主義」の立場である。消去主義者は「心の働きは脳の働きである」と考え、それは「フロギストン」などと同様に科学の発達によって消滅する概念であると見なす。そして消去主義の立場において、自由意思は存在せず、物事は全て機械論的に因果連鎖する。

  こうした決定論は「ミルグラム実験」やベンジャミン・リベットの実験などによって科学的な実証されたかに見えるが、そのような実験においては、「意図」の概念が曖昧に用いられており、したがって「意図」とは何であるかをまず明らかにされなければならない。

 

ミルグラム実験」あるいは「アイヒマン実験」と呼ばれる、人は任意の状況に置かれると残虐な行いをするというミルグラムの実験。

esdiscovery.jp/vision/word001/psycho_word31002.html

意識的な意思決定が行われるよりまえに、すでにそれを促す「準備電位」が発生している、というベンジャミン・リベットの研究。

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

 

第二章 意図的行為の解明

2-1 心の働きは脳の働きではない

 心の働きを脳の働きと考えることには無理がある。このことに関連し、本書では四つの理由が述べられる。

①意図や信念は「始まりの瞬間」を特定することが困難であり、また、そうした瞬間は我々においてそもそも問題とされない。自転車に乗っているとき、我々は自転車に乗っていることを常に意識しているわけではない。しかし、自転車でスーパーへ行こうとする行為は、行為者によって意図された行為である。あるいは、「始まりの瞬間」が自らによって自覚的に意識された瞬間ならば、そうした自覚的な意識は実際の因果連鎖において直接的な役割を果たしていない(この論点は、ベンジャミン・リベットの実験に対するダイレクトな反証となっている)。

②また、信念や意図は長時間持続する。受験を控える受験生は一年間受験勉強をするが、そのあいだ常に受験に意識を集中させるわけではない。「何かを信じる・意図すること」と「何かに対して意識を集中すること」は異なる。

③また、意図された行為は一般に再記述が可能である。「自転車に乗ること」は、「スーパーに行くこと」や「夕食を用意すること」の一環として再記述できるし、また「ペダルを漕ぐこと」や「ギヤを変えること」といった微細な行為の束としても再記述できる。

④加えて、信念は単純な行為のうちにも膨大に見出すことができ、「信念のインフレ」が生じる。

 心の働きを脳の働きと同一視する背景には、行為当事者と行為非当事者のあいだには非対称性が存在する、という考えがある。この非対称性は一人称権威(first person authority)と呼ばれる。我々は、行為の意図を最もよく知るのは、あくまで行為の当事者であると見なしている。そして、一人称権威は「心が身体の内部に隠蔽されている」という考えと癒着しやすく、この考えは「隠蔽説」と呼ばれる。霊魂であれ脳であれ、それらは隠蔽説の考えに則っている。隠蔽説はみな「心は(条件つきで)観察可能である」と見なす。一元論者は外的な装置(fMRIEEG)によって、二元論者は内観によってそれが可能であると見なす。 その点で、両者は類似した立場であると考えられる。

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(本書、p. 84より)

 

2-2 本書の基本的なスタンス

 それに対し、本書の立場は英米の哲学者であるアンスコムデイヴィドソンの立場に依っている。本書の目的は、ある意味では行動主義に陥ることなくライルの立場を引き継ぐことである。

   両者は「行われた理由を尋ねられ、行為者当人がそれに答える」というコミュニケーションに着目する。たとえばアンスコムは以下のように述べる。

 

「意図的行為とは、ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為のことである」(アンスコムインテンション』、産業図書、p. 17)

 

 

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(本書、p. 101より)

 

 この立場において、身体内部には何も隠されていない(詳しくは割愛)。

  だが、この立場では、意図はすでに為された行為の理由を述べる際に遡行的に見出されるものであり、その意味で、意図は仮構された虚構物ではないか、とする反論はあり得る。この反論に対する本書の解答こそ、本書において最もユニークな箇所だろう。たとえば、「意図」を行為の前にすでに存在するものではないとする主張は以下のようなものである。

 

「理由過程は無時間的である。行為に時間的に先立って遂行される内的過程ではない。すなわち、理由過程は行為の「原因」ではない。理由過程において導出した理由が行為の「理由」となる。この理由過程は、行為後に、過去に遡って、行為において遂行されていた過程として構成される」(瀬川裕英『責任の意味と制度──負担から応答へ』、勁草書房、p. 104)

 

 アンスコムは行為の理由と原因を区別し、行為の理由を事後的に「構成される」ものと見なす。重要な点は、この立場が行為の理由を事後的な構成物と見なす一方で、事後的に意味付与する回顧行為より以前に「生の過程」が存在している、と(暗に)前提するところである。つまり、この立場は、行為の理由を虚構に位置付けると同時に、「本当の行為の過程」のようなものを前提としてしまう。

 しかし、「我々が回顧する以前に存在する」という行為の過程もまた、同様に語られることによってのみ見出される。行為の過程が回顧される以前においても存在する、という立場には有用性がある(たとえば自然科学)。だが、もちろん有用性は正しさを保証するわけではない。たしかに、回顧されるより以前において「生の過程」が存在するかもしれない。しかし、過去が全て回顧されることによってしか見出されていないことは事実である

 とはいえ、この主張は「人間によって回顧され、語られる以前には、過去は存在しない」という、過去の実在を否定する主張に帰結するわけではない。あえて言うならば、「過去は実在するかもしれないが、それを我々は知り得ない」という不可知論の立場に最も近い。

 

2-3 「それ以上の実在論へも反実在論へも踏み込まず、両者の間をかいくぐり続けること」

   ところで、『時間論』における中島義道の立場は、一見して類似しているが、上記の立場とはまた異なる。中島によれば、回顧する以前に過去は存在せず、したがって過去と対比される現在もまた存在しない。そのため、中島は以下のように述べる。

 

「『過去』という観念が登場してはじめて、われわれはそれとの対比から『現在』という観念を手に入れ、両者の関係においてはじめて『時間』という観念を手に入れる」(中島義道『時間論』、ちくま学芸文庫、p. 29)

 

 また、中島は以下のようにも述べている。

 

「だから、何も想起せずただ漫然と湯に浸かっている場合、すなわち過去を登場させない時、私は同時に現在に開いていない。私は時間以前の状態にある」(ibid, p. 25)

 

 中島は回顧以前において時間は存在しないと見なす一方で、「時間以前の状態」は存在すると見なしており、本書はその点を批判する。というのも、仮に回顧以前において何かが存在していたとしても、語られる以前において存在するものを、実際に語ることにおいて示すことはできないからである。中島の記述を引いたのち、古田は「自分たちの知る過去はすべて回顧されたものだということである、それ以上でも以下でもない。重要なのは、ここで踏み留まり、それ以上の実在論へも反実在論へも踏み込まず、両者の間をかいくぐり続けること」であると述べている(p. 114)。 

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(本書、p.114より)

 

2-4 心の働きと言語的なコミュニケーション 

 ライルが述べているように、心の働きの見なされてきた意図や信念は、脳であれ魂であれ「これ」や「あれ」と指示できるモノと同列に並べられる存在ではない(カテゴリー・ミステイク)。いわば、意図・信念は「語られる得るもの」だが「指し示されるもの」ではない。このことは、「重さ」「短さ」「軽さ」などの量的カテゴリーが、それ自体として存在しているわけではないことと同様である。つまり、意図・信念によって引き起こされる出来事は指し示すことが出来るが、意図・信念それ自体を指し示すことはできない。

 また、意図・信念を語る言葉は、他の言葉との関係において意味を持つ。言語は指示対象と恣意的に関係する、自立した閉じたシステムである。そして言葉は部分の総和ではなく、全体が部分に先立っているという意味で「全体論的性格」を持っていると言える。加えて、こうした言葉の性格に関連して、ヴィトゲンシュタインは以下のように述べている。

 

「ひとつの文を理解しているというのは、ひとつの言語を理解しているということである。ひとつの言語を理解しているというのは、ひとつの技術に習熟しているということである」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』、第一九九節)

 

 「ひとつの技術に習熟している」とは、特定の言語を用いて営まれる文化のうちで生活することができる、ということを意味する。人間は膨大な数の言語的なコミュニケーションのうちで、言葉の意味を発生的に理解するようになっていく。

  意図・信念は、「理由への問いに対する返答」という言語コミュニケーションにおいて見出されるものに過ぎない。ゆえに、意図・信念は言語的に存在する「言語的存在者」として考えられ、行為の成立根拠は、身体内部に局在する脳・魂に見出されるのではなく、多大な年月の上に成立している言語的コミュニケーションの只中に見出される

 ライルは「傾向性とその発現」を客観的に観察可能な振る舞いの束と見なすが、本書において、古田はライルと同様の「傾向説とその発現」を、言語的コミュニケーションにおける「(ヴィトゲンシュタイン 的な意味での)技術とその発揮」として読み替える。

2-5 心の働きは物質の働きに付随(スーパー・ヴィーン)する

 繰り返せば、「どのような出来事も回顧される限りにおいて存在する」ということは、同時に「時間以前において何らかの出来事が存在する」ということを含意するわけではない。そして、出来事はミクロにもマクロにも再記述することが可能であるが、再記述の数だけ出来事が複数存在しているわけではなく、また、一方の記述が他方の記述の原因および結果であるわけでもない。ゆえに、心的な働きの過程として回顧された出来事を物理的な因果連鎖として再記述することは、心的な働きを物理的な過程に「還元」すること意味しない。心の哲学において、この種の事態は「心の働きは物質の働きに付随(スーパー・ヴィーン)する」というふうに表現される。

 加えて、このことに関連して、デイヴィドソンは以下のように述べる。

 

「主観的な状態は、脳や神経系の状態には付随しない。つまり、二人の人間が、互いにそっくりな物理的状態でありながら、似ても似つかぬ心理的状態をもちうるということである。もちろんこのことは、心的状態が物理的に付随しないということを意味するわけではない。というのも、実際、心理的状態が異なるならば、どこかに物理的な違いがなければならないからである。だが、その重要な物理的違いは、人間の中にはないかもしれないのである」(デイヴィドソン「心に現前するものは何か」『主観的・間主観的・客観的』、春秋社、p. 108)

 

 このようなデイヴィドソンの議論を受けて、古田もまた同様に「心の働きが、脳の働きという時間的空間的に狭い範囲の物理的過程には対応しない」ため、物理的過程とは脳に局在するものではないと述べる。つまり、「人がある言葉の使用法をどのように学んだかという自然な来歴の諸相が、必然的に、言葉が意味する事柄にも影響を及ぼす」のであり、「我々の言葉が意味する事柄は、部分的に、我々がその言葉を学び、使用した環境によって決定される」のであるから、実際に心の過程に対応するのは、主体を取り巻く環境全体を含む物理的過程のことであると古田は述べる(デイヴィドソン「自分自身の心を知ること」『主観的・間主観的・客観的』、p. 40,55)。

2-6  決定論を反駁する際の根拠

 こうした物理的過程の規定は、時空間上において極めて幅を広く取ることから、神経科学における作業仮説にはなり得ない。このことは、本章全体において一貫する、決定論を反駁する際の根拠である。なぜなら、「決定論の多くが、心的過程を脳の短時間の物理的過程と同一視することに基づいているからである」(p. 131)*1このように述べた上で、古田は、「論理的には決定論が正しいか否かを判断することはできないものの、実践的には我々は自分たちの行為を決定論的に語ることはできない」と結論する(p. 132)。

 

まとめ

「手をあげることから手があがることを引いたら、何が残るか」というヴィトゲンシュタインの問いに対し、古田は、そこには意図が残ると述べ、しかし、その意図は一人称的権威に基づいて心・脳に局在する働きとして見なされず、「理由を尋ねる問いに対する応答」という言語的コミュニケーションにおいて見出されるものであると述べた。

 意図はすでに為された行為を回顧する際に、事後的に見出されるものであるため、行為をもたらす原因であると考えられる自覚的な自己意識とは区別される。とはいえ、そのような意図は回顧によって作り出された虚構ではなく、しかし虚構ではないとも言い切ることができない。というのも、意図は常に既に回顧することによってしか見出されたことがなく、たとえ虚構ではないとしても、我々はそのことを知り得ない。そして、意図が虚構であると端的に規定し得ない以上、そのような虚構とは別に、行為において「生の過程」が存在すると仮定する必然性もまたない。どちらにせよ、意図が虚構かどうかは不定であるが、意図が回顧によって見出されるという事実それ自体は疑い得ない。古田は、その事実から行為の原因になるような何かの実在を肯定することも否定することもしない(あるいは、する必要はないと考える)。

 とはいえ、行為が再記述可能性に開かれている以上、それは物理的過程としても心的過程としても記述しうる。ただし、その記述の数だけ行為が存在するのではなく、また、ある記述が別の記述の原因および結果と見なされることはない。したがって、心的過程と物理的過程という記述同士の関係は、デイヴィドソンの言葉で言うならば対称的な関係である。

 また、このことを自由意志と決定論との関係において記述し直すならば、一方で決定論が正しいかどうかは論理的には分からないが、他方で、我々は自らの行為を決定論的に語ることができないため、我々が自由意志を持ち得ないと断定することは困難であり、また不合理であるといえる。(その意味で、本書の議論は、帰謬法を用いた自由意志の擁護であるといえる)。というのも、意図は言語コミュニケーションにおいて見出されるが、言葉は全体論的な性格を有しており、また、ある言語を理解しているということは「ひとつの技術に習熟している」ということである。「ひとつの技術に習熟している」とは、特定の言語体系を用いた文化的生活の送ることができるということであり、したがって、「言語という脈絡においてのみ、文は(またそれゆえ語も)意味を持つ」とデイヴィドソンが述べているように(デイヴィドソン「真理と意味」『真理と解釈』、勁草書房、p. 9)、言葉はスタティックでありかつ全体論的なシステムとして存在する。それと同時に、人間が言葉の理解する場合、言葉は一個の全体としてダイレクトに与えられるわけではなく、特定の時空環境において繰り返し使用されることを通じて理解される。その際、言葉のやりとりは、自由意志が存在することを(表面上は)前提とした文化のコードに基づいて交わされる。ゆえに、「実践的には、我々が自分たちの行為を決定論的に語ることはできない」。

 

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

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哲学探究

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*1:とはいえ、この論証は不十分であるように思われる。「心の働きは、何年何十年にもわたる時間的空間的な極めて幅の広い複雑な物理的過程に付随する」という命題から「心的過程は物理的過程に置き換えることができる」という主張を導き出すことが出来ない理由として、古田は、そうした物理過程を把捉することが現に不可能であり、これからも不可能であることを挙げている。そして、「ある心的な出来事が物理的な出来事であるからといって、その出来事が心的ではなく物理的だということにはならない。同一性とは、対称的な関係なのである」というデイヴィドソンの記述を引き、自らの説を補強している(ibid, p. 130)。しかし、それは、あくまでも「現にそうである」ということに過ぎず、「そうなり得る」という可能性を完全に否定しているわけではないという点において、筆者は論証として不完全であると考える。たとえば、「未婚者とは未婚者のことである」という命題は、いついかなる状況においても真である。本書に挙げられた論証は、「現にそうである限りにおいて正しい」が、わたしの挙げた命題はその論理形式によって真偽が確定しており、両者の真理性を比較した場合、前者の真理性は後者の真理性に劣る。ゆえに、この論証は完全なものではなく、前提と帰結される主張は仮説的なものに他ならない。つまり、わたしは物的一元論の反論は有効であるように考えたているということになる