たのしい知識 Le gai savoir

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ことば|記憶|アーカイブ

コーヒー・チェーン店【エッセイ】

 よく行くコーヒー・チェーン店には時々白痴のひとが訪れる。白痴と呼ぶべきか、何らかの精神遅延を伴う障害を持ったひとと呼ぶべきか、それはさしあたり問題ではない。彼のことを白痴と呼ぶのは単に便宜上の都合によるものであり、特に深い意味はない。

 

  彼はいつも大きなレジ袋をいくつも抱え、足早にお店に入る。髪はボサボサで、髭も伸びている。もしかしたら浮浪者なのかもしれない。彼が何かを頼んでいるところを、わたしは一度も見たことがない。彼は文字通り店に来て、そしてすこし店の中を歩きまわり、そして帰る。何かを呟きながら歩いていることもあったが、私は、彼が何と言っているのかいつも聞き取ることができなかった。店の人や客が、彼にあからさまな関心を向けているところを見たことがない。追い出しもしなければ、視線を向けることさえなかった。なんだか、その様子を見ていると、彼はわたしにしか見えないのではないかとさえ思えた。先日の夕暮れどきに、彼が店にやってきたときもそうだった。

 

  わたしが壁側の席に座って本を読んでいるとき、彼は店にやってきた。いつも通り大きなビニール袋を何個も手に提げて、コカ・コーラのペットボトル小脇に抱えている。最初から注文するつもりがないせいか、まず真っ先に彼はトイレのほうまで足早に歩く。トイレは店の一番奥のほうにあった。彼はいつもと同じような格好をしていて、同じように何かを呟きながら、同じような経路を同じような速度で歩き回っていた。途中、返却口に置かれている飲み物の残りを空になったペットボトルに注ぎ、氷を頬張るように噛み砕いた。彼が氷を噛み砕く音がこちらのほうまで聞こえくる。ジャリジャリした音だった。わたしは本からすこし目線を離し、正面の空間に目をやり、彼がお店の傍で何かしている気配を感じていたが、いつものように彼のことを気にかけているような人は誰もいない。だが彼はそのときわたしの目の前に居た、紛れもなく否応のない存在として居た。わたしは、だんだんと彼の存在のことから頭が離れなくなり、彼のことしか考えられなかった。するとふと、自分が奇妙な気持ちに囚われていることに気が付いた。

 

なんで私たちはこんなところでこんなふうに座っているのだろう。

 

 辺りを見回すと、店はほぼ満席になっていた。斜め前の席に座っている高校生は受験勉強をしていて、隣には子供を連れた女性が友達と話し込んでいる。スーツを着たひと、パソコンに何かを入力しているひと、友達と話しているひと、携帯を扱っているひと、勉強しているひと、手帳に何かを記すひと、何もせずただ座っているひと。そうした人たちはどこの喫茶店にもいるように見えた。BGMとして店のスピーカーからメロウなR&Bが流れている。ここに来るといつも聴く曲だった。つまり変わったことは何一つなかった。

 

 彼は、その日も誰からも声をかけられず、ビニール袋が互いに擦れあってシャリシャリする音を立てながら、お客とお客のあいだを歩いていく。おかしな話かもしれないが、わたしはあのとき、この店のなかの風景は、実は彼の夢のなかの風景なのだと言われても、たぶんそんなに驚かなかったような気がする。客としてその場所で大人しく座っている私たちと彼はあのとき同じ場所に居た、けれど本当は同じ場所になど居なかった。そんなふうに考えると、なぜかわたしはどこかで安心したような気がした

 

 やがてわたしは本の続きを読み始め、彼はいつものように店の中を歩き回ったあと、外へ出た。店の中は彼が来るまえと何も変わらないように見えた。隣の子連れの女性は帰り、斜め前の高校生はまだ受験勉強を続けている。夕暮れにも関わらず店の中はひとが出たり入ったりを繰り返していた。スタッフが途中で入れ替わり、別の女性スタッフが注文を受けていた。ほとんど見たことがないひとだった。もう一人いたスタッフが返却口のコップを片付けようとしているのが見えた。コップは一つだけだったが、そのコップの中身は、空だった。