たのしい知識 Le gai savoir

習作(@hiropon12124870)

Our Girlfriends 断片

何かの始まりは、一体いつ起こっているのだろうか。エミが生まれたとき、エミは自分が生まれたことを知らなかった。エミは未熟児だった。母はエミがちゃんと育つか心配し、赤ちゃん手帳にはそうした母の心配が事細かに書かれていた。何かの出来事が起こったとき、その出来事は、いったいどの時から始まっているといえばいいのだろうか、お婆さんが淹れた熱い紅茶に、野戦病院の天井が映り込んだとき、中国人の男の前歯が、どこかに落とされたとき、そのときすでに何かが始まっていたのだろうか。(…)エミとユキは別の場所で、別々の時間のうちで生きながら、そうしたことを考えていた。しかしそのことは互いに口にしなかった。口にする口実が大してなかった。それによって始まりがいつからだったのか、彼女たちにはもう分からなくなっていた。だが、今年最初の光雨が地面に降り注いだとき、太陽が、滴の形で切り取られ、バラバラになってしまったときのことをエミはよく覚えていた。確かこんな感じだった、とエミは思い、そして今はすでにここにない風景のうちに自らを置く絶望的な努力を、もう一度繰り返す。彼女はそれをもう一度繰り返す。あれは少し前のこと、終わりがやってきたあとの、全く同じ一日の片割れ、今よりも過去の、そしてあのときよりは未来でもあった一日。

積み重ねられた本の山の、その隙間から、今日もまた光が差し込み、彼女が目を細めると、切り細工のガラス窓の外に、今年になって二度目の太陽が、滴の形に縁取られて降っている。それは彼女にはいつにもまして眩しかった。前回よりもずっとずっと眩しかった。そしてそう感じる理由は、彼女へ至る遥か手前で消えていたため、彼女はその光にたいして為す術がなかった。やがて光が、彼女の胸の内に沁みていくと、彼女の身は内から照らされ、そのうちの小さな彼女の嘘は、不透明なガラス板のなかの黒い沁みのようなものになって目立ち、それが彼女にとっては気がかりだった。しかしやがてそれすらも光は搔き消して、それは彼女を液化したそれ自身のうちに取り込み、そして去った。彼女は寒さを感じていた、眩しくてそして寒かった。光のなかに沈み込む彼女の目の前には、一匹の牛が草を食んでいる。いつの記憶だろう、と彼女は思う。耳には赤いリングが付いていた。どこかの農場だった。彼女の手はまだとても小さく、誰かに連れられて見つめるその牛の目は結晶のように輝く。--ドナドナ、あのかわいかった子牛を連れて行った作業着姿のひと、撫でるたびに鼻を鳴らして喜ぶ子牛、手を握られていたわたしはその子牛を怖がり、その細い指をしたひとはわたしの頭を撫でて、楽しそうに牛の鳴き真似をやってみせた。…今日は、外出するには外は寒過ぎて、居間の隅に置かれたあの天使の置物でさえ、触れれば氷のように冷たくなっている。そう、そうだ。「天使」にだって今日の外は寒すぎる!それに、わたしは天使になることさえ出来ない、それにわたしのからだは「石」になどなれやしない、石にも天使にも「動物」にも、でも、なぜわたしは、こんなことを考えているのだろう。石と天使と動物なんて、わたしには何にも関係ないことなのに--。気が付けばエミは、ユキのことを忘れ、お婆さんのこと、中国人の男のことも忘れて、彼女は朧げな想いのうちを一歩ずつ探索する。そのあいだも、彼女は毛布にくるまり、そして本越しに外の風景を眺めていた。滴の形に縁取られた光の粒は、依然として降り止むことがなかった。まるで何かに対して怒り続けているようでさえある、と彼女はその雨を見て思う。そう思っていた気がしていた。はっきりとそう彼女は感じていた。おそらく彼女はそのとき、自分が怒られている、と感じていたのではないか?だがしかし、誰が、彼女のいったい何を咎めて、このような雨を降らせているのだろうか。

彼女が机に置きっぱなしにしていた手鏡に、光が映り込む。その鏡の内側には別の一日の欠片があった。よく見るとそれは同じ場所、彼女の部屋、楕円形の形をした窓の前に、バリケードのように積まれた本の山が、意味を伴って映り込んでいる。それらの本は、とあるお婆さんが彼女に贈ったものだった。無花果の花を摘むのが好きな小柄のお婆さん。

トーマス・マンエミール・ゾラヴァージニア・ウルフシェイクスピアソフォクレスマルグリット・デュラスフランソワーズ・サガン幸田露伴野上弥生子

色々な本があった。読んだことがある本もあれば、名前さえ聞いたこともない本もあった。どの本も一様に、数十年もの時の流れを吸って、ずっしりと重たかった。それは彼女の知らない時の蓄積であり、人々の生きた痕跡だった。またそれは、彼女が生まれる前の世界の報告書でもあった。一文字一文字にその当時の時が空気のように挟み込まれていて、彼女はいつもそれらの本をおもむろに開くたび、人々の喧騒や静寂が徴のように溢れ出してくるのを感じ、そしてその黴くさい古書の谷間に挟み込まれた、記憶の糸口に耳を澄ませて、その音を聞くことが好きだった。それは意味ではなく音、それも、黴臭さの繭のうちに彼女自身を包み込むような、彼女が自由に身動き出来るような音の建築物でもあり、ときに、そうした本は、彼女の精神が根を生やす地層へと自らを差し出す、彼女だけの離れ島でもあった。そのように、彼女にとって読書と音楽の境目とは、限りなく薄い。それは複数ある別々の形が衝突して震え、異なる形が幾つもの層のように堆積して、別のより大きな形のうちに数えられるような、音と意味が交差するひとつの場所なのだ。パラフィン紙で装填された本を閉じると、埃がすこしだけ舞い、その埃が地面に降り立つよりも前に、彼女はその本のことを忘れてしまう。

彼女は本を読むことが好きだったが、本を閉じることも同じくらい好きだった。

「熱い紅茶ばかり淹れて、お前はトンマなやつだと野戦病院では詰られましたけど、まあ、あの男のひとらも随分焼きが回ってましたからね、数日後には、またどこかに配属されるんですから、可哀相なものですよ」湿った空気を吸った猫の腹を撫でるお婆さんは、彼女に本を差し上げるときに、その話をした。

お婆さんは、戦中のあいだ看護師に駆り出され、血を流した男たちの介抱をしていた。線の細いお婆さんは、当時、血に濡れた男たちのあいだを、どのように慌ただしく往来していたのだろう、と彼女は思う。彼女は、三角帽を被った育ちの良い若い頃のお婆さんが、止血をしたり、注射をしているところを想像するのが難しかった。彼女にとって、お婆さんはゆっくりと歩き、時折鋭い目をして相槌を打つ、とても自由な気風の人で、献身的な介抱をするようなひとには思えなかった。お婆さんの配属先の野戦病院では、多くの人がそこで職を失い、家族を失い、そして今まで連れ添ってきた自らのからだを失っていた。お婆さんが当時のことについて語ることはなかった。彼女はその話を聞きながら、お婆さんの顔を見つめ、何ひとつ聞き逃してはいけないようにと、耳を外側に向けて開こうとして、額に思わず力を込めてしまう。「あの当時、紅茶なんてものが出回っていたのに、わたしは驚いちゃってね。ついちゃんとあっためないと、と思うと、とても熱くしちゃって。≪あちち、おい、これじゃカバだって火傷するぜ≫ですって。ふふふ」お婆さんの膝の上で猫が伸びをし、お婆さんの細くてピンと皮膚の貼った手は、その姿を撫でている。彼女はあのときお婆さんからいただいた紅茶に、男たちの血なまぐさい無垢が映り込んでいたような気がした。それはハーブティーだった。だが、それほど熱くはなかった。飲みやすい温度だった。彼女はお婆さんから頂く紅茶が好きだった。

今年の夏が来ればまた、お婆さんは、太い樹木の幹の下に、色とりどりの花を手向けにいくはずだった。お婆さんはその儀式をあの日から一度も欠かすことなく続け、花をたむける太い樹木は、戦争が終わった日に病院の婦人みなで埋めたのだということを、彼女はいつの日かお婆さんから聞いた。--とても律儀なひと、わたしならすぐに忘れてしまう、店先で買ったはずの乾電池だって、家に帰って来れば、どこにしまったのか、すぐに分からなくなるくらいだから。ましてや、何十年も前に会った人のことなんて!--「エミちゃんは賢い子だけれど、わたしは当時、ほんとにどこかのろいところがあってねえ」。

ゆっくりと降り注がれ、地面の草花に染み込むその光の粒のことを「光雨」と呼んだのは、エミがときどき行く肉屋で働いている、中国人の男だった。遠い土地で聞こえた音の名残りが、空気のうちに残り、それが風に吹かれてその土地の工場に落ち、ワークブーツを履いた子供達が踏みつけたことで、発光する、それがやがて空に登っていき、雨と混ざり合っていって「光雨」になる、男はエミにそう言った。「内緒だよ、あの光雨に怯えてうちの店主なんて、自分のうちに穴を掘るつもりなんだ。≪飛んで逃げられないなら潜るしかねえ≫」浅黒い顔をしたその男は、店主の真似をするのが好きだった。

その真似をするときの男の顔の歪み方は、すこし変で、エミはそれをみると、なぜかいつも1日得した気分になる。今日はいい日、まずまず快調ね!と。「ねえ、内緒にしておくけれど、その話ってほんとうなの、だって…」「ほんとうって?オレにはそんなこと分からないよ。ただそう言っている人の話を聞いたんだ、それで十分だ。それがほんとうだ」。

語尾に「だ」を何度もつけてさえずるようにそう言った男は笑い、その笑顔は、前歯が一本欠けていて、それ見るたびエミはその欠けた前歯が今どこにあるのかを考えて、切り落とされた肉の一片を買う。彼女はそのとき、自分が肉を買っているのではなく、そのここにはない欠けた前歯を買っているような気がした。それは奇妙な感覚だった。--変な話、あのひとはそうやっていつも謎めいたことを言う。あのひとのこと、わたしは何も知らない。だけどあの茶色の野球帽は不恰好だから、別のかぶったらって、このまえ言っておくべきだった--「エミ、逃げるんなら空じゃなく、地下らしいよ。今のうち穴を掘ったらいい。また肉買いに来てよ、さようなら」

歯は食べ物を咀嚼するためにある。その歯も肉から出来ている。しかし、その肉も歯を持っていたのだろう、歯と肉は、どちらが先に彼女のもとにやってきたのだろうか。だが彼女はそうしたことを思うこともなく、ただ奇妙な感覚に引きずられ、脳裏に焼き付いた中国人の男の顔を、なおも思い返していた。満面の笑顔、しかしその口には歯が欠けている。穴が空いている、そして、その穴の向こう側には、彼自身がいる。

エミが住む一軒家の、二階の一室で、エミは毛布にくるまったまま、首の付け根に、光雨がまだらの模様となって映り込むのを感じながら、次第に、昨夜の夜の香気が、いまだに鼻腔の奥のほうに残り香として残っているのに気が付き、彼女はおもわずくしゃみをしそうになる、そして咄嗟に口を押さえた。

ユキは、今もぐっすり眠っているはずだった。

エミは音に敏感なユキを、起こすつもりはなかった。あんなふうにユキが突然エミの一軒家を訪ねたのは、初めてのことだ。ユキはいつも日曜のお昼にやってくる。居間の窓際を陣取って、外から差し込む光が、床に陽だまりを作り、そこで猫のように体を丸くしてにやにやしている姿を、いつもエミは見ていた。「この場所、わたしがいつも予約してるから」

その日の前日、つまりエミが光の雨を見つめた最初の日、カーテンのように襞を作った雲が月を遮り、エミの一軒家の前の道は、舗装されたばかりで滑らかで、誰の足音も吸い込んでしまうその道を、ユキは歩いて彼女の家にまで辿り着いた。家には誰も居なかった。エミはまだ仕事をしていた。そのまま家の冷たい扉に額をくっつけて、ユキは眠っていた。それがエミによって発見されたのは、それから一時間後のことだった。「お、やっほー」「うげ」 「いれてくれー」 ユキはエミの体に鼻を擦り付け、そして悪だくみしているようにクスクス笑う。もたれかかるユキの吐き出す息には、香水とお酒の匂いが混じり合っていた。ユキの頰は、赤くて、それでいてどこか白かった。二人は暖かな家の中に入り、エミは紅茶を入れ、ユキはいつもの場所を陣取る。

茶の湯気を口で吹きながら、体操座りをして居間の地べたに座るユキ、裸電球のままの居間の灯り、冷蔵庫の隣に置かれた猫の置物、玄関口に置かれたユキの靴は、酷使されて悲鳴を上げているようにヘタっていた。ユキが居間のテーブルの脇に放り投げた革のバッグは、彼女の見たことのないものだった。丸いバッグだった。中にはたくさんものが入っているせいかよく膨らんでいた。ユキはいつも物をたくさん詰め込む子だった、とエミは思う。そう思ったとき、ユキは今日あった出来事のことを話していた。

「ペコさんがお客さんのお皿ひっくり返しちゃって、あのときは、ペコさんを店先のマトリョーシカのなかに隠そうかと思ったけど、ペコさん楽しそうにハーハー言っててね。しょうがないから、お客さんに謝って料金タダにした。家族経営だから許されるこのユルさよ。…でもさあ、ペコさんとは長い付き合いだけど、もうちょっとお客様に優しくというか、ここフランスじゃないんだから、お客さんがいるときは、ご当地猫みたいにマスコットになってくれればいいんだけど…」ユキは話をしながら眠っていた。すやすやと寝息を立てていた。小さな少女のようにして絨毯の上に横たわっているのをエミは見ながら、ユキのボブヘヤーの髪が、ユキの口元にまですこしかかり、ユキのしっかりした形の耳に、幾多ものピアスが、裸電球に照らされて光っているのが目に映った。--ピアス、いつ開けたのかさえ知らなかった--「だってエミ、そういうの嫌がるでしょうよ」目が覚めたあとのユキは、エミにそう言ったが、そのときのエミは、打ち明けてくれなかったことにすこしだけさみしさを感じながら、ユキに毛布をかけ、ユキの頭を撫でた。ユキの頭の形はとてもよく、耳元でくるんとカールしたユキのボブカットが、エミは好きだった。エミの掌が、ユキの頭頂部に触れると、彼女は首筋を微かに震わせ、その辺りの空気もまた震える。エミは、そのままユキの隣に寝転び、彼女のからだを抱き締めると、「ふふ」と眠りの隙間からユキは笑い声を小さく立て、そして寝返りを打った。外には風は吹いておらず、物音はあの滑らかな道にみな吸い込まれてしまう、部屋の中も、部屋の外も、ユキの寝息以外には、何ひとつ物音がしなかった。「言いたいことがあるなら、また明日聞くからね。ゆっくりおやすみ」エミはそう言った。それは自分に言い聞かせているようでもあった、そのことに気がつかないフリをエミはしていた。

少ししてエミは立ち上がり、冷たくなりかけている紅茶を飲みながら、眠っているユキを尻目に二階に上がろうとした、そのとき、エミの体が居間のテーブルに少し当たり、何かが落ちた。平べったいように見えた。それは『動物農場』だった。それはお婆さんに貰った本の一つだった。その本の題名につられて、彼女はふと、お婆さんの膝の上で眠る猫の姿が、目の前によぎったような気がした。彼女は動物を飼ったことがなかった、ひとり寂しいから動物を飼うというのは、どこか悪いことをしているような気が彼女にはした。エミは悪いことをするのが怖かった。しかしそれを誰か他の人に言ったことは一度も無かった。それを言うことはひとを傷つけることのような気がした。--猫は好きなんだけれどな、だって、彼らは誰にも何も期待していないから--。彼女にとって、一番身近にいる猫とは、お婆さんが飼っている猫だった。オスの猫だった。去勢された猫だった。おとなしい猫だった。「わたしらもずいぶん若くってね、周りの女の人らは、血気盛んでしたよ、女は革命と恋愛だって言ってねえ」そう話すときのお婆さんは目は、かつての燃え盛る命の輝きを取り戻し、いつも若い少女のようだった。そして相変わらず猫の腹を撫でていた。猫は気持ち良さそうに眠っていた。

「…それで、もう出ることにした。もういい、あそこにいるだけでわたしのなかの何か死んでく気がするね」次の日の朝、寝癖の付いた髪をかきあげ、何かを決意したときのユキの顔を見ると、エミは、蜜柑の樹に登って蜜柑の果実をもぎ取ろうと話していたときの、少年のようなユキのことを思い出す。心なしか柑橘系の匂いが風に乗って居間を包み込んだような気がした。ユキはいつも髪が短く、スカートを履かなかった。「そう、でもどうすんの、あなたには…」そうエミは言いかけ、口を噤む。

--頼れる人はあの風変わりな家族だけでしょ、か--。

口を噤んだエミを見つめるユキの目には、強い意志が感じられ、エミが何を言おうとしているのかを、すべて理解しているようだった。その瞳は、ユキの生い立ち全てを象徴しているように力強くエミには思われ、エミには触れられないような何かが、その瞳にはあった。そのせいかいつもエミはその瞳の奥を覗き込むのをためらう。そこにはたとえ友達であっても気軽に覗き込んではいけない何かが横たわっていた。それはエミがユキと出会う遥か前からユキのなかにあるものだった。

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