たのしい知識 Le gai savoir

習作(@hiropon12124870)

名前と「もの」

名前と「もの」

 言葉の、特に名詞は、ものや出来事の名であると言われている。
 名詞は、無意味な音素の羅列ではなく、それ自体が何かを指し示しており、何らかの視覚的な表象や感覚知覚などに結びついている。しかし、ほんとうに言葉がものとのあいだに対応関係を持っているのかどうか。それは、動詞や名詞などを修飾する形容詞や副詞などのみならず、確実に一個のものと対応している名詞でさえ、怪しいことがある。

 いくつかの方向性を考えながら、先に進めていこう。それは極めて単純な話である。
 目の前の物質としてある「これ」と言葉の上での「本」は、同じものだろうか。語と対象とが同じである、というときの、この「同じ」は、いったい何を意味しているのだろうか。まず、感覚知覚の方向から考えてみる。実在する本はわたし自身の観念の連合物などではなく、わたしの複数の知覚や複数の時空のもとでの知覚経験を総合したとき、それが「同一性」を持ち、常に同じこの本として考えられ、また本の持っている一義的な「読むことが出来る」という機能を有するものとしてその本がある場合、その本が「在る」ということを、わたしは理解する。つまり、それは先験的な対象ではありえず、わたしの経験を必要とする認識である。そして、「本」という語が、本という実在する個物を指しているという了解をわたしは行う。
 だが、もし仮に、本が粒子の集合であり、量子力学の考え方すればどの本であれ、読むことが出来るものというよりも、そうした粒子の集合でしかないといった場合、本はわたしが知覚経験と表象によって結びつけているあの「本」という語と、同一のものを指し示していると言うことが不可能となる。

 つまり、純粋な自然科学における対象認識において、本という語は、何も指し示さない「不適当な語」となる。
 では、それでもなぜ「本」という語がこの世の中にはあるのか。それは、物理法則の世界においてこのような語による意味の文節化はナンセンスであったとしても、人間の経験的な世界においては「本」という語によって何らかの意味を発生させることが可能だからである。わたしたちが、そのような世界把握をもとにして生きていること、わたしたちの認識が、物理世界の法則にすべて還元されない形で存在していること、ここにおいて、本という語が科学法則における語の採択から逃れ続けている意味がある。(私見によれば、この問題は用在連関が一義的な形相とは別の機能を生み出すことよりも、重要な論点を含む。これは、事実としてそれが「原因」となるような真のものの秩序が、「結果」のうえで問題とならないということを指しており、意味の論理学におけるドゥルーズの議論が参照項となる。また、これはいわゆる「存在論的コミットメント」とクワインが読んでいる問題であり、科学的実在論が多く議論している)

 だが、それに対して、言葉の不完全さはもっと別のところにある。本の例を挙げていくなら、わたしは本という観念を有してはいるものの、その本という語に対応している本は、必ず「この本」と直接に指示できるような、他の本から区別された個物であり、固有の題名を持っている。たまたま視界の目の前にある「精神症候学」は、その隣にある「美学事典」とも違うし、「眼と精神」とも違う本である。いうなれば、本という語は、あくまでも特定の個物に対応しているのではなく、その個物の有する代表的な性質とに対応している、ということができる。つまり、当たり前だが本とはカテゴリーの名であり、固有名ではない。
 このような推論を通じて、本という語は、一般に個物を指示しているのではなく、個物をもっと正確に指示することが出来るのは「固有名」である、とした。だが、次にこの「固有名」もまた、そう簡単に了解することが出来ない性質を秘めている。固有名は、直接個物に対して名付けられている。わたしは「精神症候学」という本が、目の前の物質として紙の束と正確に対応していることを理解する。しかし、なぜ「精神症候学」という固有名が、この目の前の本に対して与えられたのか。その理由の一つとして、その本の著者がその本をそのように名付けたからだ、という解答がありうる。では、なぜ著者はこの本をそのように名付けたのだろうか。
 
 固有名は、その個物の内容を代表しているものだとするなら、「精神症候学」という名が、その本の内容を一番代表しているものとして、著者によっては考えられていたのか。しかし、その本の内容と題名が一致していることは、そのように著者がそのこの本に対する名付けに特権的な位置が与えられている、という前提を持たない限りは、成り立つことが出来ない。クリプキがそう考えていたように、名付けは行為としてのみあり、その名付けを正当とする根拠はその行為が事実として行われた、という事実性に依拠している。*1
 また、仮に別の観点から固有名と対応する個物について検討すると、用在性がそのものの本質を規定する、という議論へと接続できる。本という個物が、たとえその制作の過程において、ある一義的な目的を可能とするものとして制作されていたとしても、その個物は、それだけにとどまらない用在的性質をはらむ。これもまた単純な話だ。ある物質としての質料を持っている本は、それをシートの代わりに地面に置き、その上を座ることも出来るし、また本は紙という可燃性の物質によって出来ているため、暖をとるためにその本を燃やし、その火によって身体を暖めることもできる。

 問題は、わたしたちにとって本が、ある一義的な目的のために名前を与えられているが、その名前とは別の形で本を「使用」するとき、それでも本が、その物質的同一性とおなじような同一性を持ったものとしてそこにあるということを、どのようにして了解すればよいのか、ということである。これは、生成の途上で多様な役割を持ったものとしてある本が、絶えず物質的同一性を持っているのに対し、そのほかの同一性の面で、それは変わり続けていっている、ということを意味するのだろうか。
 とはいえ、目の前にある物質が、「本」というカテゴリーも、個物としての固有名である「精神症候学」という名前も持たない、すなわち言語的な意味文節の埒外にあるものだとしたら、どうだろう。まるで自動車をはじめて見たときの古代人のように、白人種をはじめて見たときの未開人のように、わたしたちの経験世界のなかには存在しないものが突如として現れたときに、われわれがいかにしてその個物にカテゴリーを与え、階層的な名の秩序のうちに位置づけることで、自らの経験世界の内側に取り込んでいくのか。それとも、いっさいの名付けを拒んでしまうような個物というものは果たして存在しないのだろうか。

 たとえば、わたしは目の前の「精神症候学」を、本であることとは忘れ、新たな名付けを試みようとする。この物体には、厚みがあり、いろんな角度から捉えたとしても、ある立体的なものとして存在している。形態的に見れば、この物体はの直方体であり、わたしが眼をつぶっているときも、手で触れればそれはまだあり、わたしが手で触れないときも、それは目で見えており、すなわちわたし自身の一つの感覚知覚に依存した形で存在しているわけではないらしい。とはいえ、まだ本というものの存在を知らないと仮定されたわたしは、おそらくこの物質が自らの知る植物や海洋生物とは別のもの、誰か人の手で作られた人工物(生きていないもの)であることを理解し、そして、これが「いかなる目的や役割を持ったものなのだろう」と推論をはじめるに違いない。そこにおいて、わたしははじめて目の前の人工的な物質が、その紙を一枚ずつ破って燃やすだめではなく、わたしの視覚の機能に従って文字が配列され、ある特定の知識がそこに書かれている文字によって示されている、ということをおぼろげながらに理解したのち、その機能をほかの諸物の持っている機能から区別する形で、まずこの物質の機能面でのカテゴリーを考え、そして次にこの目の前の本の固有名を考えることとなる。
 
 さて、実のところ本題はここからである。
 わたしははじめに、語と対象とが一致しているとはどういうことかを考え、やがて語が往々にしてカテゴリーを示しており、個物を示すさいには固有名が必要とされること、等々を論じ、その対象の固有名は対象の創造者による「名付け」という事実的行為を根拠としており、他方でその対象は用在連関においては多様な機能を果たしつつも、物質的な同一性をもったそれは、最終的にそれを使用する存在にとっての一義的な目的によって、カテゴリー自体が規定される、ということを大まかに論じた。
 問題はその次である。わたしたちにとって、名付けようのないものとは、固有名を持たないものではないだろうか。以前書いた拙文*2のなかでは、その例として、「目の前の壁、砂利」などを例に取った。確かに、それは全く名前の持たないものではない。玄関を開けると見えるアスファルトで固められた物質は、「壁」と言われるし、たばこを吸うときに灰を落とす石の集まりは「砂利」と呼ばれている。先ほども問題にしたように、ここでの名は主に類を指示している。そのため、個物というものが問題にならない。ゆえにわたしのなかに「了解不可能な分からなさ」が生まれてしまう。
「本」と違い、わたしがおそらく語と対象との一致等々の問題において問いを立てるのは、このような対象物と名の関係なのである。私的な話だが、わたしは、昔から今自分が行る場所がどこなのかがさっぱり理解できずに、すいすいと地名を覚えられる人には驚きを覚えていた。この場合、わたしは場所という不定形なものと、一つの語が対応するということが、理解できなかったのである。
 それは何「である」か。引き続き壁や砂利を例に取ると、まずそれは人工物だろう、誰か人が作ったものだ。なぜわたしの家の前には壁があるのか?わたしの家の目の前は公園になっていて、その公園からわたしの家が丸見えになってしまうから、壁があるのだろう。そのような「一義的な機能」を持ったものとして、壁がある。だが、壁はわたしに別の疑問を抱かせる。仮にその疑問を「分割不可能な実体物への名付け」としてみる。本やテレビといった諸物が、わたしにとって名詞と相性がいいのは、それらが空間の内でわたしの知覚可能な大きさのものとして、他から分離しているからにほかならない。それは他の物質とのあいだに連続的な関係を持っておらず、何らかの形で分離していることで個物として存在している。しかし、壁はそのような仕方で他から分離しているだろうか。何かしら、そこには連続的なものとして、すなわち地面に打ち立てられ、のっぺりとした外形を持ち、そして運動しておらず、何よりも人間の知覚経験のうちに収まりきれない。

 もう少し丁寧に見ていく必要がある。
 砂利の例は一旦省き、壁にだけとどめよう。もしかりに、わたしの玄関を出てすぐのところにある壁を、ある他から分離した特定のものとして名前を呼ぶ必要が生じたとき、わたしはそれを、「玄関を開けたらすぐある壁」や「公園とアパートを隔てている壁」というふうに呼ぶ。このとき、わたしは対象の固有名を呼ぶのとは別に、目の前の対象が、他の対象とのあいだで形成している「関係性」を指示し、その関係性のうちにある対象として、目の前の壁を指示する、という手続きをとっている。(ベイトソン
 だが、その関係性を通じた命名は、その関係性が持続している限りにしか、有効ではないのはもちろんのことだろう。わたしがこのアパートから引っ越してしまえば、「玄関を開けたらすぐある壁」という呼称はもはや成り立たないし、公園が潰されてマンションが建ったとしたら「公園とアパートを隔てている壁」という呼称は成り立たない。ゆえに、関係性に根ざした対象の名は、その関係性が変化することによって、名前自体を変化させていかなくてはならず、仮に「名の同一性」というものを想定するなら、その壁には名の同一性はない。付け加えておくと、「壁」は、やはりカテゴリーであり、わたしの目の前にある「この壁」というときに、その個物としてある壁を名指すことが出来ていない、とわたしは考える。ここから、幾つもの議論を接続することが出来る(廣松)。対象を名指す語は、それが呼称された途端に、ある不死性を獲得する。たとえば目の前の壁や、あらゆる場所にある壁というものがすべて破壊されたとしても、「壁」という語自体は死滅することなく残る。目の前にある対象が、語が名付けられる以前の対象だとしたとき、そこに立ち現れるものは、不定形で本質を持たない謎のものであり(サルトル)、そうした剥き出しの存在に耐えかねて、我々は名付け行為を通じて、世界の安定化を図る(中井)。また、ハーマンはオブジェ志向存在論のなかで、対象が無限の可能性を秘めたものとして、相関主義的な人間の認識に由来しないものであり、その対象の無限性は常に認識主体の認識から「退隠」しているもの、と考えられる。

 こうも言えるだろうか。壁というものが、時空の持続のなかで生まれてきたとき、その壁が生まれる以前にも、それを作った制作者は別の壁を通じて壁の観念を獲得しており、互いに物質的にかけ離れた世界中の壁は、その「壁」という観念が生み出され、それが再現されていくリレーのようなものとしてある、ということも出来る。(これは壁というものの起源が、目の前の壁というものにまで連綿と時空を越えて継起していることを指す)
 ここで、わたしのアパートの前にある壁という例を取り外し、もっとわたし自身の関心へと近づけていこう。わたしたちの生命環境を構成する時空のうちには、量的に無数ともいえるものが存在している。それらを数的に捉えるためには単一の単位(数的記号)にまで還元しなければならないが、ものの数は通常、そのものの性質に従って単位を持ちうると考えられるため、洋服と本と床を同じ「一個」として数えることは、どこか不自然さが残る。ここで、その無数のものたちは、そのほとんどが固有名を持たないものとして、複数のものや主体や環境とのあいだで関係性を有するものとしてその時々に名前を付けられている(わたしが今居るところは、何々通りの、何とかというお店の前で、番地は何々で・・・)。たとえば今わたしがいるアパートのなかでさえ、床があり、段ボール箱があり、本棚があり、ペン立てがある。たしかに、わたしはそれらのものへと「志向性」を向けたとき、それらのものは、他から分離したものとして、指示されることが出来る。しかし、テーブルは床の上に接し、その上に事典やコップとが配置されており、本の下にはポストイットが差し込まれ、そのポストイットの隣には筆箱があり、床といってもテーブルの上にある床とは別に、台所に行くと冷蔵庫や本棚に接している床があり、その冷蔵庫の上には電子レンジが置かれ、その電子レンジの上には調味料を入れたカゴが載っている。このように、宙にただ一つの本が浮かんでいて、目の前にただ一人の人が建っているというわけでもなく、様々な単位によって無数の数え方があるようなものが、それぞれある配置関係のもとで、他のものと多様な関係を持っているとき、それらの関係性を包括的に呼び習わす名前が、果たしてありうるのだろうか。雑駁に言うならば、ものの複雑さに対して、名前はそのものの性質を捉えきることがない。
 そのような仕方で物質としての対象が存在し、そして言葉というものがそれに名付けられている。そうしたとき、(すくなくとも)わたしはこの複雑な関係性を織りなしているものの秩序のなかで、それらの秩序の全体性を捉えきることなく、部分的にそのものに名前を与えることに止まる。

 また別の例を言えば、地図は、実際の空間のうちにある単一のパースペクティブによっては記述されず、その空間の配置関係を鳥瞰したときに得られるような関係性を、平面図に書き記すことで、空間を文節化して、その平面図に照らし合わせて個々の空間に番地が与えられ、言い換えれば「名付け」られている。
 量子物理学の例でも挙げたように、また関係性を名の代わりとする例でも挙げたように、このような名付けには、ある方向性が与えられている。地図という空間の配置関係が絶えずその瞬間での普遍的な関係性を指示しているとしても、仮に量子物理学のいうような物質の普遍的な秩序からすれば、そのように空間配置を考えるときに物質を粒子以上の固体だとすること自体が、すでに見誤りだろう。ここにもまた、主体との相関性徒の関係でものの名付けが行われている。
 このような「もの」は、アリストテレスのカテゴリー論からすれば、その最上類は「存在」である。存在は、それ自体が何の性質にも依存しない実体であるから、このようにわたしの感覚知覚を通して種々の仕方で名付けているものの名は、そもそも不適当なのかも知れない。

1、言葉は音素の集まりではなく、何らかの「意味」であり、特に名詞は対象を指示している。
2、対象は先験的な観念ではなく、時空内部での知覚経験の総合により、「同一性」を持ったもの捉えられ、次にその対象の一義的な機能(形相)とによって、名が与えられる。個別の音素の集合と意味とのあいだには絶対的な法則は存在しないが、一度何らかの形で発生した音素と意味の一致は、ある程度の時間、発話者たちによって維持される。
3、量子力学等の自然科学が提示する物質観は、その真偽は問わず、一義的にものの名前に妥当するわけではない。なぜなら、我々は量子力学の想定するような物質を知覚することが出来ず、我々の経験世界は我々の知覚に合わせて対象にも名前を付与している。故に、本を「本」と呼ぶことは、発話する人間存在にとって有意味である。
4、対象は、大抵カテゴリーとして名付けられ、個物に純粋に対応するのは固有名だけである。
5、類の名が、相互の類とのあいだで一義的な形相によって名付け分けられるのに対し、固有名は「名付け」という事実的行為をその根拠とする。
6、対象はその一義的形相とは別に、用在連関のなかで多種多様な「使用」が行われる。これは物質的同一性とは対比的である。
7、未だ名付けられていない対象と遭遇した場合、まずその対象を複数の知覚によって検討し、それがどのような質料であるのか、それが人工物か自然物か、それがいかなる目的因を持っているのかが検討され、そうした探索行為を経て、対象はすでにある名付けられているものたちとの連関のうちで名付けが行われる。
8、壁が了解不可能なものとして現れるのは、それがある固有名を持たないこと、またその対象が人間の知覚において他の対象から分割された個物として存在しておらず、「分割不能な連続体」として捉えられるためである。
9、壁を名指す場合、それは名指しの主体との関係や、その壁の想定されている空間内部での機能関係とを名指す形で、つまりその対象の関係性を名指すことにより、名指しが遂行される。
10、廣松は語が対象と対応しながら、対象が生滅するのに対し語は不滅であると考え、サルトル-中井はどのような語とも対応していない対象は経験世界の秩序を破壊するものと考え、名付けはそうした世界を安定化させるものと考える。ハーマンは認識主体との相関とは関係なくある対象は、無限の可能性を持ったものとしてあり、認識主体との相関において、対象は「退隠」しているという。
11、人工的な個物は、それが時空のうちにいまだは発生していない状態においても、別の時空のもとで存在している対象の観念を制作者が獲得していることにより、異なる時空においても再現可能である。つまり時空のうちで最初に発生した人工的対象は、その観念が制作者たちのあいだで連鎖する限りにおいて、その対象の起源まで時空を越えて連続している。
12、時空のうちに諸物は、直接的に同一の数的記号には還元されず、ある単位を通じて記号化される。
13、諸物は相互に無数の関係性を構成し、そうした諸物の相互関係の複雑さに対し、それに対応させられる名は単純なものに止まる。
14、空間の同一の配置的相互関係を記号化した地図は、認識主体のパースペクティブに由来せず、認識主体のパースペクティブを機能させる経験的な地平として、鳥瞰的なパースペクティブにのみ記述される。

 

[後述]
 この議論全体はあらゆる面で稚拙さが残るものの、加筆訂正はせずそのままの形でアップすることにした。


*1 このクリプキの『名指しの必然性』を念頭に置いた論理展開は、主に二次文献の耳学問によるもので、適切な議論とは言えない。
*2 これは私的に書いた文章のなかで用いた例のことを取り扱っている。