たのしい知識 Le gai savoir

習作(@hiropon12124870)

デモにまつわる自伝的テクスト

 

 今から一年と少し前だろうか、二〇一五年の夏、私を含めて多くの人々が集団的自衛権の行使を容認するか否かについて真偽を問う議論が、そこかしこでお湯が沸騰し、その表面が熱によって泡立つように盛上がっていた。連日の各種メディアによる報道、国会の審議、プラカードを頭上高く掲げて街頭を練り歩く人々、大学や弁護士連盟といった各種圧力団体による声明、ネット上に行き交う言葉。わたしの確認した限りで多くのリベラル左派知識人が、こうした現政権の動向に対して何らかの否定的な判断を下しており、その否定的な判断とする根拠にもそれぞれ種々の角度によるものがあったが、そのすべてを仮に総合したとしても、そこには明々白々な説得性があり、よほど際だった論点がそこで見いだされない限り、集団的自衛権の行使容認に関する議論を肯定的に受け止めるような言説を見いだすことは、わたしには出来なかった。あのとき、わたしはプロテスタント教会の信徒である同い年のひとに誘われて、大学生が組織する安保法制に反対する市民団体に入った。
 それは意志に基づいていたというより、ほとんど偶然に近い出来事であり、真面目なものというよりはむしろ間抜けで拍子抜けするような顛末だった。わたしもあの発熱するような議論の渦に飲み込まれて何らかの危機感を抱き、以前デモに参加してから半年から一年あまりの時間が経っていたものの、市街地の中心部で行われている安保法制反対デモに参加した。その安保法制のデモに参加した後日、わたしが通っている教会の同い年の大学生から、今日、若者の政治についての集まりがあるんだけど、来ない?と言われた。そのひとはわたしが行った安保法制のデモも居た人だった。どこにでもいるような大学生に見えるそのひとは貧困の問題からジェンダーの問題、福祉、平和、マイノリティの問題まで広く我が事の問題として考えていて、その自分自身のことの延長線で社会事象に対してリベラルな考えを持ち行動に移すそのひとに対して、わたしはほのかに敬意の気持ちを抱いていた。決して党派的な人ではなかった。そうした人柄を信頼していることもあって、わたしはそのひとの誘いを受けてそれから数日後に市内のとある駅前で待ち合わせて、その若者の政治の集まりに行くこととなった。わたしとわたしを誘ってくれた人が約束された場所に行くと、ビルの一角の中にある会議室を借りた法学部の学生はまだ来ておらず、何人かの本当にどこにでもいそうな二、三人の大学生がそのビルの前に居た。各々に別々のジャンルの洋服を身に纏ったまだあどけなさの残る顔のわたしと同い年の彼女ーー最初にその集まりに参加したとき、そこにいた人のほとんどが女性だったーーたちは互いにほとんど初対面に近いらしく、わたしたちの顔を見て彼女たちはわたしたちに向かって会釈をしてそれぞれに自己紹介をはじめていた。法学部の学生ーー彼は男性だった。そのとき居合わせた人々の中でわたしのほかの男性は彼だけだったーーがやっときて会議室の中に入り、市民団体設立についての話しを始めたとき、わたしは一瞬なんのことか分からずぼおっとしたあと、それから数秒後に文字通りギョッとした。予想外だった。わたしの脳裏には近頃マスメディアなどで騒がれていたSEALDsのデモの様子や演説の様子などが浮かんだ。あぁ、これは「あれ」の集まりなのかとわたしは思った。そして会議室の椅子に座っている人達が真剣な顔つきで彼の話しを聞いている横顔をわたしはひそかに盗み見て、この集まりが市民団体設立の集まりだということを知らなかったのはおそらくわたしだけだ、ということをわたしは知った。それぞれ正式になぜこの市民団体設立に参加しようと思ったのかの動機を順々に述べていくなか、わたしはなんと答えればよいのか分からなかったがとにかく何かを言ったはずだった。しかしその内容は忘れてしまった、忘れても仕方のないようなことを確か言ったはずだった。わたしには安保法制の問題に対して反対する意見は幾つか持ち合わせていたものの、市民団体に参加するということへの意見を持ち合わせているわけではなかった。その集まりが終わったあと、今日の夕方から始まるデモに参加して最後に若者の市民団体を設立することを宣言しようという話しになり、わたしたちは会議室の外を出てデモの集合場所である市街の中心地にある公園へと歩いていった。歩きながらすぐわたしはわたしを誘ってくれたひとについて今回のことを問いつめると、あれ、言ってなかったけ、とそのひとはやや間延びした声でそう言った。言ってなかったよ、とわたしは思った。
 市民団体に加入したといっても、その後わたしは団体運営にも諸々の役割ごとにも関わらなかった。デモ当日の演説や政治集会での演説はもちろんのこと、いろいろなところで行うビラ配りにも参加せず、会計・機材の管理・これからの方針・日程のチェック・広報・デモ当日の隊列配置等々を決める会議にも一度も参加しなかった。わたしはただ当日のデモに参加して貸し出しているプラカードを配り、リズム隊の一人としてドラムを叩き、終わった後の募金集めをし、後片づけをすこしだけ手伝ったあと、お疲れさまでしたといって帰った。来ている人と個人的に話すこともなかった。なぜか、そこでその人たちと話しをすることには躊躇いがあったし、デモに参加することに比べて積極的にそうした市民団体の活動に参加する気持ちにはなれなかった。あるときのデモの前時間にわたしが集まりの隅で所在なさげに立っていると、途中から参加していたメンバーのうちの一人がこちらへと近づいてきて初めましてですよね、とわたしに向かって話しかけた。わたしはやや苦笑しながら、初めましてじゃないですよ、何回かご一緒してます、と言った。わたしの市民団体のなかでの存在感はその程度のものだった。


 わたしは、特に政治や社会について関心が抱いていたわけではなかった。子供の頃からわたしの両親は自民党政権によって何かしら直接的な利益を受けているということでもなかったし、わたしの生まれ育った町の住民が軒並み自民党支持者という保守的な場所であったわけでもなかった。そもそもわたしの生まれ育った場所は三十年ほど前に宅地造成で切り開かれた郊外で、伝統いうほどのものなかった。にもかかわらず親は二人とも共に自民党支持者だった。家の中で特に政治についての会話がなされていたわけではなかった。その点で言えばわたしの両親は日本の国民の多くがそうであると予想されるような意味で限りなくノンポリに近い感覚を持っていた人だった。わたしのほうも特に政治の話はしなかった。家族は近頃始めた自営業の経営に日々を忙殺されていたし、わたしはわたしで何かしら考えなければならないことがあり、やらなくてはならないことがあったため、そうした日々の中でマスメディア上で交わされている政治の議論はどこかしら遠いもののように映っていた。しかし、デモに参加するようになってすこし経った頃に、実家に帰ってテレビを見ているとちょうど安保法制に関する審議の映像がテレビに映り、総理の答弁をしているのが見えた。母は国会で答弁する総理の顔をじっと見ながら、わたしがマラソンで走ったとき総理の奥さんがね、がんばれーって声援くれたことがあったんだよね、安部ちゃんも今いろいろ頑張ってると思う、と言ったのを聞いて、わたしはなぜか何も答えられなかった。それからわたしは今後家の中でたとえ親が政治の話しを口にしても、自分のほうからはなにも言わないでおこうと思った。デモに参加するようなわたしはこの家の中に居ないわたしだった。
 市民団体といっても子供の頃から民青に入っていわゆる「共産党支持者」として左翼的ーー「リベラル」ではなくーーな政治活動を続けてきた人というのはそんなに多くなく、というよりもまったくいなかった。いたとしてもわたしはメンバーの一人一人と個人的に話すことがなかったので分からなかった。漏れ伝え聞くところによればメンバーのうちの何人かは大学の急進左派的な教員に「オルグ」されて活動に目覚めたり、またメンバーのうちの何人かはリベラルな親の考えに影響を受け、またそれよりももっと少数のうちの何人かは新聞やテレビの報道を見て違和感を感じるようになった人達だったらしかった。そうした学生は去年の夏頃、日本の諸都市に数多くいたはずなので、わたしが出会った彼らもまたそうした人々のうちの何人かだろうとわたしは思った。団体の中心にいた学生のうちの何人かは、釜ヶ崎の炊き出しに行き、水俣の取材をし、沖縄の基地移設問題の座り込みもし、原発反対の集会に出ていた。もちろん国会前にも行っていた。彼らは毎週末どこかしらに飛び回っていた。学校は大丈夫なのだろうかと思わないでもなかったが、そんなふうに毎週忙しなく長距離移動をするひとを見たことがなかったので、そうした活動の報告がLINEを通じて流れてくるたびに、わたしは目を丸くしていた。そうした安保法制に反対するデモを主催する市民団体のメンバーのうちで、意外だったのはプロテスタントのクリスチャンの人達がそれなりの数いたことだった。キリスト教系の大きな私立大学が県内にあったためか神学を教えている大学教員や教会の牧師や信徒の人達がデモに参加していることも多かった。そうした人達に会うたびにわたしを誘ってくれたひとはその人たちに会釈をして、近況について話し込んでいた。ほとんどが知り合いのようだった。わたしは数年前からプロテスタントの教会に通っていた。主にシモーヌ・ヴェイユの諸テクストや内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」、「イザヤ書」や「ヨハネ福音書」や「ヨブ記」などの新旧約聖書などを通じてキリスト教への信仰心を抱いていたわたしは、二〇一四年辺りの夏からプロテスタントの教会に通っていて、教会のなかにはリベラルな考えを持っているひとが多く、わたしは、現政権の政治に対して明確にNo!を唱える人々をインターネットや書物以外でこんなにたくさん実際に目にしたのは、生まれて初めてだった。
 最初に行ったデモは秘密保護法に反対するデモだった。まだ市民運動がそこまで盛り上がっていなかったので、集合場所の公園を調べて行ってみると広い公園の隅でのぼりを掲げているひとが十数人から二十人ほどいたが、どことなく近寄りがたい印象を受けて十数分その公園の周りをうろうろと歩いたあと、意を決してその一群の中に加わった。若い人はわたしのほかに一人だけしか居なかった。そこにいる多くの人が様々な活動をしている、いわゆる「活動家」と呼んでも差し支えないような人達だった。わたしは声を出してシュプレヒコールを上げることはなかったものの、プラカードを掲げて道路を列になって歩くことは慣れればそこまで抵抗は感じなかった。ただ歩いて、人々が奇異な目でこちらを見つめているのを澄ました顔で無視して歩く、いわば散歩のようなものだと思った、そしてそう感じるぐらいには、幾分冷めた気持ちでもあった。わたしは昨日まではわたしを見つめる人々と同じようにあちら側で歩いていたはずなのに、今はこちら側でこうして歩いていた。わたし自身のうちに起こる変化とは別に、わたしは街路で別の生き物のようにして生きてしまっており、そのことの不可解さがわたしのうちに残った。その秘密保護法のデモに参加したとき、活動家の人達は若い人が来てくれることを意外に思ったのか、終わったあとに声をかけてくれた。それから紹介されて辺野湖の基地移設問題に関する街頭アクションに参加し、反原発の集会に行った。だが段々と足は遠のいて、いつしか行かなくなってしまった。一度、市内にある大きな書店に行った帰りに、通りを歩いていると偶然一度だけ参加したことのある辺野湖基地移設問題の街頭アクションにでくわしたとき、わたしは驚きそして反射的に後ろを振り向いてその場から離れてしまった。何故その場から立ち去ろうと思ったのか分からなかったが、どこか胃のあたりが重たくなったような気がした。
 それに比べれば、あの夏の安保法制のデモには本当に何度も参加した。秘密保護法のときとは比べものにならないくらいたくさんの人がプラカードを掲げて都市の中心的な街路を練り歩き、機材で音楽を鳴らしながらリズム隊がドラムを叩いてシュプレヒコールのリズムを取る。先頭では新聞記者の人達がカメラを構えており信号が青になると一斉にシャッターを押すせいで、わたしは眩しくて前が見えなかった。この写真が明日の地方新聞の社会欄に載っている映像をわたしは想像した。最終地点である公園に帰るとニュースキャスターがカメラの前でそのデモの状況を中継していて、団体の運営に携わっていたひとが最後のシュプレヒコールと終了するにあたっての言葉を述べると、拍手がそこかしこで聞こえた。時には興奮が止まらなかったのかいつまで経ってもシュプレヒコールが止まらず、もう公園に着いてあとは解散するだけなのに円になってそのまましばらくのあいだ速まっていくコール&レスポンスが続き、わたしはめまいがした。デモが終わると、待ちかまえていたように取材記者が運営の学生たちを取り囲み、彼らが今何を思ってこのような行動を続けているのかについての彼らの言葉を聞きたがった。わたしも一度だけ赤旗の新聞記者から短いインタビューを受けた。現政権の安全保障上の議論についてどう思いますかと問われ、憲法審査会でも違憲と言われ、憲法学者も軒並み今政権の法案は違憲だと言っています、なのでわたしはこの法案が通るのはおかしいと思います、というようなことを答えた。咄嗟の質問にどう答えてよいか分からず、本当に自分がそう思っているかどうかは分からなかったが、そういうふうに言われていることは知っていたし、わたしもそれに同意できるような気持ちがないわけでもなかった。ただ、そう答えたあとに腹のあたりから口元まで裂けてしまいそうな気がした。

 一度だけ、スピーカー越しにシュプレヒコールを上げることもあった。する人が誰もおらず立ち往生していたので、わたしがやります、といってやった。あの一年前に人々がうんざりするほど聞かされてきたーーどんな言葉も何度も繰り返し聞かされるとうんざりするものだーーSEALDsコールをわたしもまたしていて、音響装置によって増幅されるわたしのシュプレヒコールは、まるで自分の声ではないみたいだった。音響装置越しに聞こえるわたしの声はあの国会前のシュプレヒコールと寸分違わず、それなりに力強く声を上げていたものの、その声の力強さには、どこかおかしみのようなものを感じ、そしてやがて自分の身体が内側から、鈍くて固いものが芽生えてくるような感じがした。そのシュプレヒコールを挙げたときが、わたしの最後のデモに参加した日だった。
 国会前のデモがそうだったように、法案が可決する間際になると、更にデモの雰囲気は加熱していた。市民団体のメンバーはあちこちでビラを配りに行き、いくつかの大学には安保法制反対に対する立て看板が立てかけられ、様々な集会でメンバーの何人かが演説をする映像がYOUTUBEでアップされていた。団体のなかで様々な事柄に対して会議する機会も増えて、市民団体のなかで共有されているグループラインもあっという間に通知が膨れ上がっていた。通知が来るたびに確認するのがいやで、わたしは通知が鳴らないように携帯をサイレントモードにした。その通知は深夜に及ぶこともあったので、通知が気になって眠れなくなってしまうからだった。そのうち市民団体全員で共有するグループラインとは別に運営だけで共有されているグループラインが作られた。それでラインの通知は少しは収まった。わたしは通知をオフにすることをやめて、それでもかなりの量の通知が来ていたが、わたしはもうあまり気にしなくなっていた。
 それからあの衆院特別委員会での与党単独の強行採決が行われる日がきた。わたしもそのときは国会前デモの中継はネットを介して見ていたし、同時にパソコンの画面を二窓にして国会運営の中継も見ていた。法案が可決する当日の国会中継で議員が答弁を続けようとしている間際、それを遮って法案の可決を認める宣言を始めた委員長に対して、ネットの中継画面には拍手を示す記号が一斉に現れた。わたしはそのとき何が起こっているのか分からず法案の可決が延期になったのだと思ったが、国会の野党の議員の野合の声が響き渡り、わたしが見慣れたプラカードを掲げた野党議員たちが周囲を取り囲み怒号を強めるにつれ、これはそうではないのだと思い直さなければならず、まるでわたしは狐につつまれたように奇妙な気持ちであっけにとられ、そしてなんだか自分が滑稽なように思えた。最後の最後までわたしはこの一連の運動からボタンが一つ掛け違えたままだった。風船の空気が抜かれ、徐々にしぼんでいくような様子をわたしは想像したが、それが何を意味する感情なのかは自分でも分からなかった。そして、そののちに絶望と怒りが足元を揺さぶるように湧いて出てきていた。しかし、わたしにはこの法案可決それ自体に絶望と怒りを感じているわけでもなく、自分に絶望と怒りを感じているわけでもなく、とにかく絶望し、そして怒っていた。グループラインのなかではその採決を見ているメンバーたちの抗議が次々とアップされていた。わたしは何もアップしなかった。その翌々日あたりに、そのグループラインのやりとりは、何かしらの雑誌媒体に載ったようだった。携帯を投げつけてしまいたかった。
 その政治団体を脱会したーーといってもグループラインを抜けただけだったがーーのは、今年の総選挙の結果が決まった翌日だった。そのころになるとわたしは集会にもデモにもほとんど通っておらず、グループラインから流れてくるメッセージはほとんど見ずにそのまま消した。わたしの選挙区では争われている最後の議席公明党候補者によってほとんど決まっていたが、戦略的投票のコードにしたがって共産党候補者に投票した。ただ知り合いに積極的に選挙について会話をすることはあまりなかったし、SNS上で「オルグ」をかけることもなかった。

 先日、わたしは何かをツィッターで検索していた。時系列を遡ってスクロールを続け、何気なく流れてくるツィートを眺めていると、思わずハッとしてしまった。それらツィートのなかで去年の夏のころのツイートが検索ワードに引っかかり、そのツイートの末尾には「#本当に止める」のハッシュタグがついていた。まるで高速道路を運転している際に、子鹿が前に飛び出したときに感じるであろうようなような感覚が、わたしを襲った。それは過去のわたしの亡霊だった。だが、わたしはその感覚が徐々に別のものになっていくのを感じた。亡霊なのは、誰なのだろうか。本当は、そのツィートをまなざしている「今ここにいるわたし自身」のほうが亡霊なのではないか?そうした懐疑が大きくなるにつれ、鏡のなかに映る自分が、いつしか本当の自分になってしまうように、もしくは自らの影がわたしから切り離されて反転し、いつのまにか、わたし自身のほうが影になってしまうような感覚が、わたしは覆っていった。

 

「私はこちらにおり、もうひとりはあちらにいる、そして沈黙は恐ろしい」ポール・クローデル
「闇」(Tenrbres)

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