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たのしい知識 Le gai savoir

習作(@hiropon12124870)

「関心」について

「関心」の問題、あらゆる事物の存在は、それが仮に「在る」のだとしても、それを受け取る「私」自体が塑造されていなければ、それはなきに等しい、といったときに、ではいかなる形で、私らはそうした「関心」を、どの程度までに拡張す「べき」と言えるのだろうか。つまりそうした「べき」を裏付ける倫理は、どのようにして樹立されるのか。そもそもそうした関心は事実問題として考えられるのみで、本質的な問題とは言えないのか。

事実として、それは、わたしに対して関係の無いものになってしまっているということがある。たとえばわたしに隣人がいて、その隣人の顔も見たこともなければ、本当に隣に隣人がいるかどうかも定かではないとする。わたしはそのとき、隣人の存在を意識していない。だが、唐突に隣の部屋から喧嘩がはじまったとき、わたしは、今まであったであろう隣人の存在を、隣人の喧嘩を通じて、隣人の存在それ自体を「在るもの」として「現出」させてしまう。言い換えれば意識してしまう。(心身哲学的に言えば、それは「志向性」の議論になる?ブレンターノか)

このときわたしは、その突如として意識してしまった隣人の存在に対し、あくまでも行為の面で、その隣人と関係を取り結ぶことを意図するわけではなく、ただその瞬間に現れ出た隣人の存在を、いかなる意図とも無関係に、意識だけしていることとなる。いうなればわたしはここで発生した隣人の存在を、わたし自身の行為の連なりのなかで、全く何の意味や方向性さえも付与されておらず、行為が宙吊りになった形で、わたしは自らの主観的世界に突如として現れた隣人を、ただ意識するだけだ。

これは、奇妙な現象だとはいえまいか。現象として現れ出たものが、何らの意味付与さえもされず、特定の関係様式がそこに取り結ばれることもなく、他者として現出してしまう。意味付与や関係様式との無縁さから、その隣人の声(喧嘩する声)は、聴覚刺激としてわたしに知覚されたのち、わたしの感情を伴った「感覚」のうちにとりこまれていくのだが、さしあたりいかなる感情がそこにはふさわしく、また自然だといえるのかと考えたところで、快不快や喜怒哀楽といった幾つかの代表的な感覚はもちろんのこと、突如として現れたその隣人が、特に私に向かってコミュニケーションを取っているわけではない(壁越しに聞こえている声は、わたしに向けられているわけではない)ため、わたしはいかなる感情を抱くこともできない。むしろ、わたしはそうした意図や欲求や感情を欠いた形での隣人の現出への戸惑いを覚えてしまう。そして、何故隣人の喧嘩の音は、わたしにとってそのほかの知覚から弁別され、固有の輪郭を持ったものとして現れ出てきたのかについての、何らかの根拠を見出すための推論を行うことで、わたしはその経験を了解可能なものとしようとする。

何故だろうか。街中で同様のことがあったとしても、わたしはさして関心を持たなかったことだろう。おそらく問題なのは、その場で起きた喧嘩それ自体なのではなく、今まで存在していたはずの存在をわたしが意識しておらず、いわば非存在同様のものとして認識していた壁の向こう側から、突如として、喧嘩という役割的なものとは異質のコミュニケーションが立ち上がったことであり、その意表さ、同時にそこに「ひとがいたのだ」と反省(reflection)を通じて、今まで非存在として認識していた空虚が、突如として充溢した他者の場に変容してしまったことの、何とも言い難い違和感が、わたしを戸惑わせるのだ。

壁の向こう側には、誰がいるのかも分からない、ゆえにその向こう側には誰もいないものとして過ごしていたのが、そこに現れ出た存在を意識してしまうことで、わたし自身の空間が、別の存在も含まれている空間へと、変容してしまう。だが、わたしはここで他者の対象に転化する「まなざし」を受けていたのではない。わたしは上の例にあっては、むしろわたしはまなざしている側にいる。だが、そのまなざし自体を(つまりわたしの側の志向意識自体を)、隣人は知らないのだ。わたしの意識はそこで孤立してしまう。そして、いわく言いがたい違和感だけをわたしは感じる。このようなものとして、「関心」の問題がある。

ところで、わたしの関心はそう長くは持続しないだろう。先の例を引き続きをもちいるならば、隣人の喧嘩も止み、またいつもと同様に辺りは静かになり、わたしはその顔も見えない隣人の存在を、やがてまた意識せずに日常の生活を送っていくに違いない。

実のところ問題はここである。「関心」が現象の条件としてあるときに、その条件たる関心それ自体がまた受動的なものとして何らのものへも向けられないとき、また隣人の存在はいないも同然になってしまうのか。いや、そこにいることは分かったのだから、隣人は「在る」ものになった、というべきか。そうではないとわたしは仮定する。あくまでもそのように言われる「在る」ものは、「関心」が消長さえしてしまえば、「彼は存在する、ということが以前もあったため、おそらく現在も存在しているだろう」と推量的に指示してみせるよりほかない(会ったことはないんだから当たり前か)。わたしがその存在を意識し、わたしと同等のもの(感情を持ち、他者との交流を図るもの)として現れるためには、また「関心」という時空のうちで継起し、成立するようなものがなくてはならない。

もうすこしこの例を引きづりつつ、細かい部分を見ていこう。そのとき意識された隣人は、怒りを感じている存在、感情を声を通じて示している存在だ、いったい何故喧嘩をしているのだろうか、その喧嘩の相手は誰なのだろう、等々のことが、わたしの意識には上ってくる。だか、隣人がどこからやってきたのだろうかとか、収入はどうしているのだろうかとか、家族とはどんな関係にあるのだろうかとか、どんな価値を奉じているのだろうかといったことは、わたしの意識の埒外である。ただ、わたしと隣人のこのような関係をつないでいる隣人の怒りの声が、たとえばとても訛った声であったり、家族のことや収入について話していたりすれば、わたしはその隣人の来歴や家族関係や収入のことについても意識し、また自身のなかで勝手に想像を行うだろう。これは、一見してなるほどと思えるものの、よくよく考えてみれば不可解である。怒りの声は、突如としてわたしにその声の発し手である隣人の存在への関心を向けさせるものの、そこでのわたしの「関心」は、その隣人の生きてきた個々の内容については向かっていかない。

この問題を、すこし飛躍させてみるとこうである。「関心」は、その関心を向けている対象のあらゆる時空内部で起きている諸側面へと均等に降り注がれているわけではない。あくまでもその関心が発生したときの、限定された状況を通じて、わたしはその対象へと関心を向けている。そのため、わたしが関心を向けているのは、隣人という存在そのものではなく、隣人が怒りの声を発したという事柄のほうへと向けられ、次にその怒りの声が意味として分節化されることを通じて、その怒りの声という事柄とは別に、その分節化された意味に沿ってわたしの関心は移っていき、推論という形でわたしは与えられていない隣人の状況に関する情報を、自らの想像力で補完しようとする。また、わたしはそのとき今まで壁の向こう側に隣人がいるともしていなかったという理由で、隣人の現出に対して戸惑いを覚えている。つまり、このような「関心」は純粋なものであるというよりも、経験的な今までのわたし自身の壁の向こう側の認識と関連する形で、発生している。

「関心」は、それが現象のなかで何らかのものとして作用する限り、常に現在の瞬間という時制と関連しており、そしてそうした「関心」が構成されるような出来事が去ってしまった場合、そこで起こった現象はわたしにとって過去のものとなり、わたし自身からは切り離され、過去のわたしにおいて起きた出来事として、記憶のうちに格納される。また、「関心」はそこでの経験的な諸状況や当の対象がいかなる仕方で意味的に分節されているかによって作用が変わり、対象それ自体の全体性(存在そのもの)への関心といった場合には、むしろ経験的で意味的な要素は夾雑物のようなものとなる。

しかし、どうだろうか。隣人そのものの存在に関心を持つとは、どういうことだろうか。その声が、いかなる感情を示しているのでも、いかなる意味上のものとして分節化されているのでもない場合、その声は、確かに純粋なものであるかもしれない。だか、わたしはそのとき、その隣人をわたしの隣に住んでいる固有の存在としてではなく、存在しているもののうちの一つとして、ただ意識するだけではないだろうか。いわば、それはその隣人が発した声とは無関係に在るような存在としてのみわたしは意識する、ということになるのではないか。であるなら、それが時空のうちで起こった出来事であるということ自体も、さして何の意味も持たないものとして感じとられるべきなのだろうか。ならば経験的なものの欠いた地平で「関心」というものが作用するとは、いかにして可能であるというべきなのか。

「関心」が、知覚や意識と同等のものである場合、その認識能力の働きが「在るもの」をわたしに対して現出させるための、いわば現象の条件であるなら、そうした認識能力の作用が断絶する場合(わたしがねむっているとき)において「在るもの」は消滅する、というわけではもちろんない。このような極端な例を退けるために、睡眠とは別の例を考えるとするなら、それはむしろ眠りから目覚めた直後の経験だ。まだ睡眠時の感覚をひきづっているわたしは、目をこすりながらベットから身を起こし、起き上がって手洗いに行く。そのあいだ、わたしの意識はそうした日常性の反復のなかで働いておらず、何者にも「関心」を持っていない。特に障害にあたる何かがない(目覚まし時計を蹴っ飛ばしたり、隣に知らない人が寝ていたりしない)かぎりは、ほとんど自動的に身体を動かして、目を覚ますための準備を行う。このようなときにわたしの行う身体の運動は、決して無目的にあてどなく行われているのではなく、尿意や水を飲みたいという身体的な欲求を一種の目的として、ある程度組織化されている(うろうろしているうちに「あれ、何しようとしてたんだっけ」と我に変えることもある)。このよう睡眠から目覚め始めたときのわたしの行う身体の振る舞いは、果たして上の例で挙げたのと同じような「関心」が、その目的に対して向けられているといってもいいのだろうか。

この二つの例が対照を為すのは、前者はわたしに何らの身体の振る舞いも誘いかけておらず、わたしは自らが隣人の喧嘩を意識している、その自らの意識それ自体をも強く意識しているということであり、後者は、目的に向かって身体が動かされながらも、わたしの「関心」はどこへも集中的には向かっておらず、わたしは自身のことすらも全く意識していない。

とするなら、このように言うことが出来るのだろうか。「関心」がわたしにとっての「在るもの」の現象に対して重要な契機を果たす条件であるというのは、わたし自身の反復を通じて自動化された行為の連なりが一時的に停止され、その連なりのうちに「裂け目」が生じるときに、わたしの「関心」が何かしらの対象へと向けられ、その対象を同定したのち、その対象が「何であるか」に関する反省意識が次いで発生するのである。そこで最終的にわたしは自身が何かへと関心を向けているという、そのこと自体にも気付くことで、自らの意識に対して反省的な自覚が生じつつあることを実感する。

ここまでの提示された命題の幾つか役に立ちそうなものだけを圧縮するとこうなる。(ところどころ飛躍を含むんでいるかもしれない)

1.「関心」は「在るもの」がわたしにとって現象する際の条件である(もしくは条件の一部である)

2.「関心」は対象とのあいだで起こる経験的な事柄を通じて発生する

3.「関心」は対象の経験的な諸要素によって意味状に分節化されており、ある分節化された要素へと「関心」が集中する場合、対象の時空内部でのあらゆる要素はのみならず、対象を対象たらしめている性質そのものへと「関心」が向かうことはない

4.「関心」は対象それ自体だけでなく、対象との何らか関係性を持っている自ら自身との状況と関連しながら発生する

5. 3と4より「関心」が在るものを現出させるのは、その対象そのものではなく、その対象とわたしをも含む一つの「事柄(ないし出来事)」に対して「関心」が生起するからである(

6.「関心」なき状態において、対象はわたしの現象世界に現出することはないものの、かといって非実在となったわけでもない。(そのため、わたしにとってのフェノメナルな現出は、実在概念とは無関係なものである?)

7.「関心」が発生していない状態において、身体は反復化された自動性のうちで、そのときどきの目的に組織化される形で運動する

8.7より「関心」はそうした反復化され自動化された身体運動が停止するような「裂け目」としてある出来事への遭遇を通して、一挙に立ち現れる

9.「関心」は、最初は「裂け目」として、まだどこにその原因となる対象が存在しているかもわからず、次に対象を同定することで反省的にその対象についての推論が発生し、そしてわたしと対象を含む出来事のあいだで「関心」が発生したことを自覚するとき、わたしはその自らの「関心」の作用それ自体も客観的に意識することで、いわば「意識する自らの意識それ自体を意識する」

ここまでの論点は、いくらでも反証材料が見出すことが出来るようなものであるが、わたしがここで(暗に)力点を置いたのは「関心というものが時空のうちで発生し、また時空のうちで消長するとき、いうなれば出来事としてしかありえないというとき、その論点を肯定的に受け取るべきか、否定的なものと受け取るべきか」ということだった。また、どちらかといえば、ここで取り上げた二つの例は、あまりにも他から隔絶された状態での個体における「関心」の発生を論じているため、たとえその発生が自らの自明な秩序を打ち破る「裂け目」として考えられていたとしても、いささか不十分な感がある。冒頭の言葉を繰り返すが、もともと念頭に置いていたのは、どこまで「関心」というものを拡張することが「可能」であるか、言い換えればどこまでをわたし自身と直接的にではないにせよ、関係があるものとしてフェノメナルな世界に出来事を置くことができるのかという「可能性(様相)」の問題と、その「関心」の拡張はどこまで行われる「べき」かに関する「倫理設問」の問題だった。

最後に引用を少し。本稿では「関心=志向性」概念に引き寄せて主体のフェノメナルな世界に、対象が現出することは、主体と対象を含んでいる出来事がそれに先行しているのだ(そしてその出来事の原因にまで推論が到達したときに「現象学的還元」が起こり、自体分離が成立する?)、ということに対しいくつかな論述(もどき)を行ったが、ここでそうした「関心」の引き起こす当の現象、つまり先行する出来事が、「非物体的なものとして」でもありうる、と仮定すればどうなるか。マイノング(ないし野家啓一)の議論が思いつくが、「意味の論理学」におけるドゥルーズの論述を引いておく。

ストア派は、物体の厚みに対して、草原の霧(霧も物体であるからには、霧以下のもの)のように、表層でだけ上演される非物体的な出来事を対立させる」(意味の論理学:上23-24)

こうした論述に対し哲学者の千葉は下記の図を作成し、以下のように述べる。

表層→非物体的な:意味=出来事=情報

結果=効果

深層→物体 原因

ドゥルーズが用いている例ではないが、たとえば「雨が降る」という文によって表現される意味=出来事は事実上(de facto)、落下するモノとしての水滴ーーつまり水の分子、そして酸素と水素の原子以下の最小とみなしうる素粒子たち--を「原因」としている。その「結果=効果efect」としての出来事は、しかし権利上(de jure)、それとして、モノならざるものとして存在するのであり、原因であるモノへと「還元」することは出来ないとされる。(思想地図β vor.1:288)