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たのしい知識 Le gai savoir

習作(@hiropon12124870)

劇場の上のコギト

 一年前に書いて友達に見せた原稿。彼は「オブジェクトに対立するのはサブジェクトじゃないか?」と言っていたが、突発的に書いたものということもあり、まだここで論じられている問題をどのように展開させていくべきかには、決着はついていない。

 

「劇場の上のコギト、小銃」
 デカルトのコギトは、その作用にだけのみ着目すれば、事象をオブジェクトとメタとして二つの次元に分割し、その相互的侵蝕をではなく、それ以上に次元が多数に分割することを防ぐための、装置として作用しているのではないか。この問いを様々な状況を通して考えるための一つの寓話として、ぼくが思い出すのは、チェホフの小銃の寓話である。チェホフはこういう。「もしも小銃が舞台に登場したら、それは必ず撃たれねばなりません」。

 舞台の上で用意された小銃は、本当にそれが用意されれば、撃たずにはいられないのか。むしろ撃つことができる可能性と、撃つことを実行する誘惑との緊張や対立が、小銃の持っている、必要最小限の持っている役割といえないか。つまり、小銃はその舞台のうえで何が可能で、何が可能なのか、何が自明で、何が自明ではないかの条件を基礎づける、と。だが、小銃はそれの役割の施行を促す法文書のような効力を持っているわけではない、もしも小銃にそうした役割があるようにみえるのは、それは我々がその小銃によって基礎づけられた可能性の条件のうちで既に行動しているからではないか。いいかえれば、小銃の役割は可能態の設立にある。

 確かに、チェホフのいうように、小銃が舞台に登場すれば、その小銃の機能は二つしかない。つまり、撃つか、撃たないかである。その機能を裏切る可能性、たとえば愛撫に、あるいは金槌の代理として使うことがあれば、そのとき小銃=コギトは、元々持っていたであろうオブジェクトとメタとに事象を分割する、それ自体のうちに持っていた権能を殆ど持っていない。これらの状況では、小銃=コギトはきっと別の名を持つことになるだろう。つまり、別の任意の分割点の一部として、オブジェクトに転ずるということだ。

 何故、これほどまで小銃には舞台の上で決定的な意味があるのか。それは小銃が機能を果たすとき、舞台の上では誰かが死ぬからである。この小銃という物を演者のあいだに置くことで、舞台の上にいる者は、この物によって自らは殺されかねないし、また殺しかねない。自らと他者の死をもたらす因果が、各々の目に見える形で、物質としてその場にあり、可能性としての出来事が、外化され、一つの物象になっている。それは未来における個々人の死を報せる不吉な手紙であり、また自らによる他者への、究極の関与の可能性を秘めた、世界の均衡点のようなものだ。それは舞台を支えていると共に、その舞台の終演をも同時に予兆している。

 世界の均衡点であり、未来の可能性それ自体でありながら、小銃は他方、単なる物質として、各々の目の前に放り出されている。そうした事物の諸関係の均衡を保つものが、主に一つの点によって集約されていること、このことはオブジェクトとメタが接触する点があるということ、つまり遠近法におけるパースペクティブを規定する消失点のようなものと、やはり関連している。しかしその遠近法の消失点と違うのは、舞台の上における小銃は、それを支えている均衡点であるとともに消失点でもある、つまり、それはその舞台の上のドラマツルギーを維持する役割を持ちながら、同時にそれを常に崩壊させる可能性を秘めている。

 このことは、絵画におけるオブジェクトとメタ、舞台におけるオブジェクトとメタが全く別のものであることによる。絵画におけるオブジェクトは二次元の制約を持ったタブローに三次元的な奥行きを持たせるために、メタとして消失点が導入される。いわば存在しないものを、存在するようにみせかけるために、消失点が導入されている。他方、舞台におけるオブジェクトとメタの関係はそれとは全く逆である。舞台におけるオブジェクトはその舞台の終演である演者の死をもたらす小銃によって、逆説的にその舞台の上のドラマツルギーを構成している。いわば存在するものを、存在しないようにさせるために、オブジェクトに対し小銃の持っている死の可能性が、メタとして設定される。このことから、小銃が遠近法における消失点のような役割を持ちながら、同時にその関係が突発的に裏返りうることも同時に含意している。

 こうしたことから、絵画のパースペクティブを規定するミッシング・ポイントは、ドラマツルギーを支配する機能を持った小道具=小銃に例えられるのではないか。おおざっぱな発想だが、そのことはよい。しかし、ただひとつだけ奇妙なことある。小銃ははじめからそこにあったのではなく、必ず誰かがそこに持ってきたものである。映画でいえば、その小銃がそこにあることの必然性を示すカットなり、シークエンスなりが挿入されなければ、突然現れた小銃の存在は、いかにも不自然なものに映じよう。にもかかわらず、である。小銃は、それがやってきた来歴によってではなく、それが持っている本来の目的(コギト-遠近法の例でいえば事物をオブジェクトとメタに分割して均衡させる点)によって、その来歴をむしろ塗り変えているようにさえみえる。その時間軸の反転こそが奇妙で、かつ不可解なのだ。それでは小銃が生殺与奪をもたらすものであることが、あたかもそこに小銃がやってきたことの必然性をも同時に証立てるかのようだ。
 ところで、その小銃自体の来歴は、そもそもその舞台の上にあるシークェンスによってですらなく、その小銃を製造した職人・工場・発案した技術者、その技術者たちの市場を維持している資本家や国家、最小の手続きで人を殺すことが常態化し、そうした状況を促してきた、その歴史的理念、概念のほうにある、といえそうなものだが、しかしそうした本来の小銃の来歴は、舞台上で言挙げされることもない。あくまでも、小銃があるか、ないかの事実だけが唯一舞台上のドラマツルギーでは確認されるのみだ。小銃は、ドラマツルギーの均衡点であるが、一度舞台上にそれが登場すれば、それがドラマツルギーの均衡点であると同時に、消失点でもあるものとして機能する。映画の編集作業のように、物事の意味連関を逆回しの形で機能させる、
 いわば、小銃は何者かを人工的に超越的な視点の位置に置く権能を持っている。しかも、その背後にある本来の来歴の束を誰も意識することはない。関心はすでに、小銃のほうではなく、むしろ自らと他者の生存の可能性のほうに移っているからである。