たのしい知識 Le gai savoir

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ことば|記憶|アーカイブ

「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(2)

 本エッセイは、以下のエッセイの続きである。

 なお、本エッセイでは、本エッセイにおいて主要な論述を行なったのち、「まとめ」の前にいくつかの「補論」を付す。

 

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3. 「テクストの超越論的先行性」の論証

  1. 仮想的反論の提示

 では、テクストの超越論的先行性それ自体はいかにして根拠付けられるのか。

 

 そもそもテクストの超越論的先行性とは、「当該事象のに対するテクストの先行性」のことを指していた。このような先行性は、テクストが当該事象を「形成する(form)」ことに由来し、ここまでの議論は、その前提が真であると見なした上で為されている。では、テクストが当該事情を「形成」しているという前提の正しさはどのように根拠づけられるか。

 この問題に正面から答える前に、別の仮想的な反論に応答することを通じて、この前提の妥当性を幾らか根拠づけたい。その仮想的な反論とは以下のようなものである。

 

 ①古典的なテクストの著者は、何故それ以前には存在しないとされる事象を記述できたのか。②このような論拠は、古典テクストの著者に事象を「無から創造」する権能を認めているのではないか。

 
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 このような批判はありうる。まず、①について応答することはかなり困難である。たしかに、なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか、それは現段階ではおよそ説明することができない。

 だがしかし、②は「文学の基礎づけ仮説」が求める前提とは完全に一致していないため、真ではない反論することができる。

 

    なぜなら、「文学の基礎づけ仮説」において、テクストの著者は当該事象を「創造する(create)」のではなく「形成する(form)」だけだからである。「形成する(form)」とは、言いかえれば「形式(form)」の側面からしか著者が当該事象にコミットしていないことを意味する。もっというと、この前提において、古典テクストの著者は、事象を生み出してたりのではなく、事象を理解する枠組みを提示するにすぎない。

 

    とするなら、そのような当該事象を理解する枠組みとは、当該事象の「形式」のことに他ならない。では、この「形式」とはいったい何か。

 形而上学における理論的な枠組みの一つに、「質料形相論」と呼ばれるものがある。たとえば一個の彫像は、土や石灰といった素材と、彫像という形態によって彫像足らしめられている。もし仮に、彫像が土ではなく木で作られたとしても彫像は変わらず彫像のままだが、彫像の形態の代わりに家の形態が与えられれば、その彫像はもはや彫像ではなくなるだろう。

 このような意味で、当該事象を構成する可視的要素は、著者が当該事象として記述する以前に存在していたと思われるが、しかし、その当該事象の本質は、あくまでもその当該事象の「形式」である枠組みそれ自体のほうにあるとかんがえられる。

 

 とはいえ、このような反論は仮想反論の②にしか答えておらず、①を反論出来ていないという点で、弱い反論である。こうした仮想的反論に完全に応えられないところが「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」の弱点だろう。

 だが仮想的反論に対する再反論によって、すくなくともテクストの超越論的的先行性が「荒唐無稽なもの」ではないと見なすことは可能となった。なぜなら、繰り返すように、文学を基礎づける「テクストの超越論的先行性」とは、当該事象を文字通り生み出すのではなく、それを形成し、そして可能ならしめるような条件としてテクストが当該事象に対して先行していることを意味しているからである。

 

 それゆえ「1. 問題提起と仮説の提示」でも述べたように、テクストと当該事象との時間的な前後関係は同時的か、あるいはそもそも規定することが困難であるが、しかし、そのような時間的な前後関係に関する詳細な規定は「テクストの超越論的先行性」においてそもそも問題とはならない。そのため、テクストが当該事象を「形成」し、そのようなテクストの以前に当該事象が存在していなかったとする議論は、それほど疑わしいとは考えられないだろう。よって仮想的反論の②はである。

 

 そして、もし仮想的反論②が偽であるなら、当該事象に対する「テクストの超越論的先行性」を偽である判断することは認識の原理上、不可能であると見なされなければならない。というのも、ある事象がそれを記述し、名指したテクストによって条件づけられているということは、そのようなテクスト、あるいは言葉によって当の事象を認識している以上、必然的なことだからである。いいかえれば、当該事象を他から区別するという認識自体がテクスト、あるいは言葉による規定に依存する以上、「テクストの超越論的先行性」は、十分に常識的直観に即した理論的仮定であるとかんがえられる。というのも、そのようなテクスト、あるいは言葉抜きに、我々は何を認識しているかどうかさえも定かではないからだ。つまり、我々の認識がテクスト、あるいは言葉の超越論的先行性に依存している以上、先の前提が偽であると判断することは事実上不可能である

 

 よって、「テクストの超越論的先行性」に関する前提は、真か偽のどちらかであるが、たとえ偽であったとしても、わたしたちはそのことを原理的に知ることができないため、先の前提を偽と判断することはできない。したがって、先の前提を偽と判断することは誤りである。とすれば、残された判断は、その前提を真と見なす判断だけである。したがって、先の前提は真である


補論(1)  「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点

 本エッセイで論じた「文学の基礎づけ仮説」は、かりにその仮説が要請する前提を真であると見なさなくとも、つまり基礎的な原理(テクストの超越論的先行性)を正当化せずとも、その妥当性を認めることは可能である。その場合、その妥当性は、本仮説が現実におけるテクストと事象との関係を整合的に説明し得ると見なせる場合にのみ限定される。つまり、現実世界とテクストとの関係を説明するのにこの仮説が有用である場合、その仮説の妥当性は幾らかなりとも保証される。

 

 その際、「文学の基礎づけ仮説」は、テクストと現実世界との関係を整合的に説明することができるという比較的ゆるい意味において「文学の整合仮説」と言い換えられるかもしれない(もちろん、本来の意味での「真理の整合説」は、それ以外に理論を構成する命題間の整合性をも要件とするが)。

 

 たとえば、本エッセイで論じた「メタ文学論」は、なぜ古典が「普遍性」を持ちうるのかについて、有力な理論的枠組みである見なすことができる。以下、その根拠を明示する。

 

 素朴に考えれば、特定の事象を説明するための理論は、そうした特定の事象が消失した時点でその有用性が失われると考えられる。特定の事象は必ず特定の時空のうちで起こるため、それを説明する理論の有用性は必然的に事象の消失と対応する。また同様の理由により、特定の事象を説明する理論の有用性は、そのような理論が説明される特定の事象とは異なる別の文化社会的状況においては、有用性を持たない。

 

 だが現実はそうではなく、いわゆる「古典」と呼ばれるテクストは、いつ・どこの国や地域であれ繰り返し読まれる。とするなら、テクストは、かりにそれがある特定の諸事象を説明づけるものであったとしても、それは説明づけた個別的な事象を越えて、以後それ自体として自立し、わたしたちの関連事象の理解にたいして甚大な影響を及ぼす

 

 そして、「文学の整合仮説」は、そのような経験的な事実を説明する理論的枠組みとして優れている。なぜなら「文学の整合仮説」は、個々のテクストの内容に踏み込まず、あくまでテクスト一般の形式的な側面からのみテクストの「普遍性」を説明するからである。
いいかえれば、「文学の基礎づけ仮説」は、いかなる個別的な事象の生滅とも、あるいはテクストの個別的な内容とも関係なく、古典が読み継がれる理由を説明することができる

 

 対して、個々のテクストの内容からそのテクストが「普遍性」をもつことの意味を探ろうとする議論は、そのテクストの個別性に引きずられ、なぜ当の事象が過ぎ去ってもなお、そうした当該事象を記述したテクストが読み継がれるのかに関して、絶対的に確実な根拠を提示することができないだろう

 

 よって、本エッセイが論じた「メタ文学論」は、「文学の基礎づけ仮説」としてではなく、「文学の整合仮説」として評価できる余地がある。

 

(とはいえ、このような「基礎づけ主義」と「整合説」に関する議論は表層的なものにとどまっており、この論点を検討するためには、より厳密な「知識の哲学(philosophy of knowledge)」の理解が必要とされる)


補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ

 そのほかに、「文学の基礎づけ仮説」は自然化が可能なものであるとかんがえる立場を想定することもできる。その際、「文学の基礎づけ仮説」には、本エッセイにおいて問われることのなかった別の隠れた前提があると見なすことが必要だろう。その隠れた前提とは、「当該事象はそれを記述した自然言語の固有性に立脚しており、よって人工言語によって再記述は出来ないし、他の自然言語によっても完全に再記述できない」という前提である。

 

 このような前提がもし真であるか偽であるかを調べるためには、われわれは「テクストの超越論的先行性」の妥当性について検討する際、そのようなテクストを構成している自然言語の構造を調べること、あるいは、言語を用いる際の我々の認知のあり方を調べることが重要な課題となるだろう。そのような研究は文学研究者のみならず、認知言語学者や心理学者といった経験科学者によっても為される必要があるだろう。

 よって、 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地を持っていると言わなければならない。

 

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(↑つづきはこちら)

 

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「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(1)

はじめに

 本エッセイでは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護する仮説を提起したい。

 

    そしてその仮説全体の妥当性は、「テクストは当該事象を「形成する(form)」ものであり、またその意味で、テクストはそれ自体が一個の独立した対象でありながら、同時に、それは当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもある」という命題の真偽によって決まる。そして、本エッセイでは、テクストに固有なこのような性質を「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。

 

 したがって、本エッセイの目的は、このような「テクストは当該事象にたいして超越論的先行性をもつ」という命題の真偽を検討することである。 

 

 なお、こうした仮説は、他の言語に完全に置換することが不可能な、特定の自然言語によって記述されたテクストの存在身分を検討し、また、テクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述することを要請する。ゆえに、それは、規範的で実質的な内容について論じる「規範倫理学」とは異なり、そうした内容を可能としている「そもそもの次元」を問う倫理学が「メタ倫理学」と呼ばれるのと同様に、「メタ文学論」と呼びうるかもしれない。

 

 あるいはそれは、テクストの存在身分や現実世界との関係を、これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠によって基礎付けることから、「文学の基礎づけ仮説」と呼びうるかもしれない。そして、本エッセイにおけるそうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」とは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。

 

(本エッセイで呼称される「文学」「テクスト」などの名称は、ある種の物語形式で書かれた文章だけにとどまらず、広く自然言語で書かれたテクスト全般のことを指す)

 

 

また、本エッセイ(1)-(3)全体の目次は以下の通りである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

  

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1.問題提起と仮説の提示


 わたしたちは往々にして、現実の事象を理解する方法のひとつとして、歴史上の古典的なテクストの読解を有意味なものとみなす。しかし、なぜ目の前に現に生じている特定の事象を理解するために、古典的なテクストを読む必要があるのか。古典的なテクストと当該事象は無関係ではないのか。


 こう考えることはできないだろうか。ときに、古典的なテクストは、特定の事象を説明づけていると見なされるが、しかし実はそうではなく、そうしたテクスト自体が当該事象それ自体を「形成(form)」しているのである、と。その意味において、テクストは当該事象の可能性の条件である

 

 しかし、このような仮定は、一見すると以下のような矛盾をもたらすだろう。

 もしテクスト自体が当該事象それ自体を「形成」するならば、そのようなテクスト以前に、当該事象はそもそも存在すらしていない。ならば、まずはじめに当該事象が存在し、つぎに当該事象を説明するテクストが存在するというのは、事後的にわたしたちが構成した誤った認識にほかならない。先の仮説に基づくなら、事象がテクストに先立つのではなく、テクストが事象に先立つからである。しかし、そうとも言い切れない。

 

 というのも、当該事象が存在する以前に当該事象に関する記述が存在するという仮定は、明らかに日常的な直観に反するからである。ならば、この「文学の基礎づけ仮説」において、テクストと当該事象の成立は同時的である、あるいは時間的な前後関係は一意に規定しがたいものである、とさしあたり仮定しよう。


 だがしかし、そのような前提の変更によって、当該事象に対して先立つわけではないにせよ、当該事象の本質が、テクストのみに特権的に依存するとする仮定は退けられない。いいかえれば、テクストは、生成の順序において当該事象から先立つとは言えないものの、当該事象を可能たらしめ、それが「何であるか」を規定する条件であるという点については依然として変わらない(このことについては、「3. テクストの超越論的先行性の論証」にて詳述)。

 

 よって、本エッセイが提起する「文学の基礎づけ理論」において、「テクスト」とはさしあたり以下のように定義される。

 すなわち、それは「当該事象を「形成(form)」し、一個の独立した対象でありながら、同時に当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもあるもののこと」である。以下、本エッセイでは、こうした当該事象に対するテクストの先行性を、かりに「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。「超越論的」は、ここではおおざっぱに「ものそれ自体の可能性と、そのものの経験の可能性の条件を規定するものに付される形容詞」を意味し、「先行性」をここではおおざっぱに「なんらかの順序において先立っていること」として規定する。すると、「超越論的先行性」とは「当該事象を可能にし、そして、当該事象の経験を可能にする条件として、当該事象に対して先立っている」といった程度の意味として解すことができる。

 
 もしかりにこうした仮説に基づくならば、わたしたちは、特定の事象を理解しようとするとき、その当該事象に対するテクストの超越論的先行性のゆえに、どうしても当該テクストを読まざるを得ない、と考えることができる。そして、そのテクストを読むこと抜きに当該事象に関して理解することは原理的に不可能である、とさえ言える。どういうことだろう?

 

 これは決して荒唐無稽な話ではないし、ある意味では文学研究の普遍性や固有性を擁護するのになかなか手強い論拠ではないか、とおもう。以下、ごく手短にその理由を示す。

 

2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判

1.感覚的経験批判

 第一に、先ほども述べたように、この立場からすれば世界のある種の事象は、それを語る言葉の開発と共に「形成」されたものであると考えられる。仮にこのような前提が真であるならば、もし人が当該事象について知りたいとおもったとき、ひとはそれについて語った当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない

 

 この点についてすこし補足をしよう。
 通常、それ以外の選択肢としては一般に二つのことが考えられる。それは、感覚的経験と理性的推論である。つまり、「当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない」とは、「いかなる感覚的経験や理性的推論も当該事象を知るための手段には決してなり得ない」ことを指している。

 

 まず感覚的経験から。もし先の前提が真ならば、当然のことながら、テクストの外でいかなる人がいつ、どこで、何を経験、観察、知覚しようとも、そうした感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である

 

 というのも、そうした当該事象が「何であるか」を規定するのはテクストのほうであり、そもそもテクストが名指した事象と当該事象それ自体は切り離すことができない。だからこそ、かりにそのような名称で呼称される事象それ自体がどのようであるかを経験的に理解したとしても、それは、当該事象が「何であるか」とは直接的には無関係である

 

 また、おそらく以下のようにも言うことができる。もしかりに、テクストが名指した当該事象と完全におなじ事象を、過去現在未来に及ぶすべての時間と空間のなかから見つけ出すことに成功したとする。それは現に著者が記述した事象と全く同じ事象であると言ってよい。では、それについてのセンス・データは、テクストが記述した当該事象の本質を理解するために直接的に関係があるか

 

 否、そうではない。繰り返すように、かりにそうした完全に同一の事象を見つけ得たとしても、それが同じであるかどうかの基準それ自体は当該事象に関するテクストそれ自体によって規定されている。すなわち、わたしたちは、当該テクストが記述した当該事象を経験を通じて理解し、類似した事象とそれを比較することができるが、その理解それ自体は当該テクストに依存しているのである。したがって、感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である。かりにそうした当該事象と完全に同一の事象を経験したとしても、それは最早当該事象とは別の「何か」だろう

 

2.理性的推論批判

 では、経験に拠らない理性的な推論ならばどうか。わたしたちは通常、経験によらずともある前提が真ならば、その前提から導かれる結論は疑いようもなく真であるとかんがえる。たとえば、前提①「もし犯人であるならば、その時間に殺人現場にいなければならない」と前提②「Aはその時間に殺人現場にいなかった」からは「ゆえに、Aは犯人ではない」という結論を必然的なものとして導くことができる。このような推論は、疑いようもなく妥当な論証形式に則っているからだ。このような推論を用いて、当該事象に関する知識を獲得することは不可能なのか。

 

 不可能ではないにせよ、やはり経験に基づくセンス・データの場合と同様に、直接的には無関係であると考えなければならない。なぜか。

 

 その理由はおもに二つ考えられる。
 第一に、センス・データと当該事象とが直接には無関係であるのと同様に、そのような推論によって得られる知識は、仮にその前提を立てるための仮説が経験に依存しているならば、直接には無関係であると言わなければならない。経験に依存する場合、テクストによる当該事象の規定は必ず個別具体的な当該事象を先立っているからである(このような帰納と演繹を組み合わせた推論形式は、おそらく一般に仮説的演繹法( hypothetico-deductive method)と呼ばれる)。


 ならば第二に、その前提は、経験に依存しないものではありえないのか。おそらくありえないだろう。というのも、当該事象とは、あくまでも現実世界に対して認められる事象のことを指しており、完全に経験から先立つものではないからだ。そうである以上、もし当該事象への理解が理性的推論に基づくならば、その推論を形成する前提はただ経験からのみ得られる。だが繰り返すように、感覚的経験に基づくセンス・データが当該事象に関するデータであるか否かは、当該事象を記述した当該テクストに特権的に依存する。よって理性的推論も同様に、当該事象を知るための選択肢には事実上なりえない。
 
 以上の諸点から、古典的テクストは、当該事象を語る言葉の「用例集」「辞書」である共に、あたかも当該事象を創造した「神の言」(ヨハネ福音書)であるかのようであり、また、そのような当該事象を「形成」する過程自体を記述した「歴史書」でもあるかのようだ

 

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「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示──大岩雄典「スローアクター」評

 本記事は、2019年の2月9日から3月2日まで駒込倉庫にて開催された、大岩雄典「スローアクター」の展評である。大岩のプロフィールと本展の概要については、以下の特設サイトの紹介を参照。

 

大岩は2017年の第4回CAF賞海外渡航費授与賞授賞をはじめ、日本のコンテンポラリーアートシーンで注目を集めている作家です。大岩はこれまで、映像、レディメイド、ペイント、テキストなど様々な媒体を用いたインスタレーションを発表してきました。

 

映像やインスタレーションの形式に、物語論言語学、ゲーム研究への見識、また時間にかんする固有の哲学的視点を導入してつくられる大岩の作品は、美術としての同時代性だけでなく、哲学思想や文学にも通ずる射程をもち、同世代の作家のなかで特異な位置にあります。

 

本展は、大岩のキャリアのなかでは最大の規模をもち、二階建の建物全体を活用して構成されています。「水」と「落下」というキーワードで、個人の身体と美術史の記憶とを結びつけながら、〈時間〉と〈物語〉を人が感じ取とる機微をめぐって、作品は展開されます。

 

大岩の作品展示に加え、建築家・奥泉理佐子が会場構成に介入することで、展覧会は成立させられます。奥泉も大岩と同様に多くの言葉を用いますが、奥泉のそれは、光や距離など非物質的な要素と、建築の物質的で実体的な要素とを結びつけ、認知空間を構築していくことを特徴にもちます。

 

企画構成は、建築や美術の制作・理論研究者として活動している砂山太一が担当します。砂山は、これまでに情報化以後の情報と物質のあり方に言及する展示企画をおこなってきました。

 

大岩の作品態度がそうであるように、本展は大岩の作品を契機としながら、空間設計、トークイベントやアーカイブ企画など、多くの分岐点を設置し、展覧会自体にあらゆる情報の経路を作り出すことを目的とします。*1

 

 

異なる時空間の配置、認識のバグ、鑑賞者と作品の相互包摂関係

 駒込倉庫の入り口に入ってすぐのところに、割れた花瓶の破片が散らばっている。そして、その頭上階はガラス張りになっており、そこにも同様に、おなじ形をした花瓶がもうひとつ置かれている。


 頭上と地上に置かれた、割れていない花瓶と割れて散った花瓶。これらのオブジェは、その異なる時空上の配置関係によって、あたかも同じひとつの事物の、時間的には異なるふたつの現れであるかのように知覚することを、鑑賞者に強いる。このとき、鑑賞者の視線の運動は、異なるショット同士をモンタージュするカメラのようなものとして二つのオブジェ同士をつなぐ。

 

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 入り口付近、頭上と地上に配置された二つの花瓶

 

 このことに関連し、現代芸術復興財団によるインタビューにおいて、大岩は以下のように述べている。

 

展覧会とは、ものを並べる仕事だと思っています。時空間に並んだものをどうしても鑑賞者が結びつけないといけない。結びつけるという、インスタレーションや展示に要求される意識が、その対象自体をどんどんずらして落下させていく。たぶらかされていく。ここで立って見ているものはどこまで意図されたもので、どこまでモンタージュされたものかについて、鑑賞者は再検討しなければならなくなる。そのとき、落下のあわいに、落下を可能にする落差が見えるんです。鑑賞とは、連鎖する踏み外しです*2*3

 

 「スローアクター」において、鑑賞によって異なるオブジェ同士を結びつけるこのような認識の「バグ」は、展覧会を構成する素材であり、また、そもそもこの展覧会は、そのようなバグの発生をあらかじめ組み込む仕方で設計されている。

 

 それゆえ、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を見ると同時にその作品それ自体を成立させ、他方で作品は、見られると同時に見ることそれ自体を可能する。そのような本展覧会における鑑賞者と作品の関係は、ミッシェル ・セールが「袋詰め」と呼ぶ相互包摂の関係、すなわち、互いが互いを自ら自身のうちに含みこむ相互的な入れ子関係として常にすでに成立する。

 

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通常の入れ子関係を持つマトリョーシカ。しかし相互包摂的な袋詰め構造において、一方は他方を包摂すると同時に、他方もまた一方を包摂する。(https://absurdopedia.fandom.com/wiki/Матрёшка)

 

 そもそも、通常の美術作品と鑑賞者との関係において、まず作品が存在し、次にその作品を鑑賞する者として鑑賞者がおかれると通常は見なされる。

 

   しかし、「スローアクター」において、鑑賞者と作品との関係の成立は同時的であり、のみならず、両者は互いを互いの成立条件として、あたかもウロボロスの輪のように循環しつつ際限のない入れ子関係を形成し、そして「鑑賞者と作品」という共犯関係へと「落下」していく

 

 「スローアクター」では、このように一見すると奇妙でパラドクシカルな事態を成立させるトリックが、至るところに編み込まれている。

 

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一階、瓦礫の山の上でループされた音声を再生し続けるプロジェクターと、奥の階段

 

折り重なるマルチタブ・ブラウザと境界のあわいへの「落下」

 また「スローアクター」において大岩は、「落下」「水」「ズレ」「ループ」といった要素を、空間やインスタレーションなどを取り結ぶモチーフとして選択し、配置している。


 たとえば、駒込倉庫という二階建ての建築のうちで、鑑賞者は、瓦礫の山が無造作に置かれ、ループする音声が無機質に鳴り響く薄暗い一階から、階段を登って映像作品が置かれた手前のスペースへ、そして差し込んだ灯りがカーテン越しに揺らめきながらガラスへと反射し、その灯りに照らされるオブジェとペインティングが配置された奥の展示スペースへと移動する。

 

    その際、そのような時間の経過に伴って鑑賞者のうちで蓄積される鑑賞経験によって、建築物・映像・音声・オブジェ・ペインティング・階段・光と影といった展覧会の構成要素はみな、それらのモチーフを介してバラバラでありながらゆるやかに関係しあう

 

    あるいはまた、「対象自体をどんどんずらして落下させていく」という鑑賞行為によって、展覧会の構成要素は、あたかもマウスのクリックによってディスプレイ上に大量に開かれたマルチタブ・ブラウザのように、異なるリアリティの平面同士として、完全に一つに溶け合うことなくバラバラなまま折り重なる


 その意味で、一見して簡素で静かな佇まいであるこの展覧会には、高密度な関係のネットワークが張り巡らされている。

 

    そして、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を鑑賞していくうちに、現在・過去・未来、ここ・あそこ、リアル・ヴァーチャルといった境界のあわいへと足を「踏み外し」て「落下」し、また、そのことを通じて「たぶらかされていく」。*4

 

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二階。順に《SURVIVED BALL FROM NAGAWARA》,《SURVIVED BALLS FROM NAGAWARA》,《EVENTUALLY EVEN》

 

「何らかの痕跡を消したり、あるべき姿をずらすこと」としての「落下」

 先ほどの大岩の発言からも分かるように、本展覧会においては、それらのモチーフのうちでも「落下」のモチーフに特権的な役割が与えられている。

 

 たとえば、ループされる音声や映像インスタレーション《EVENTUALLY EVEN》

において、幾度として反芻され参照される20世紀フランスの画家イヴ・クラインは、《虚無の飛翔》では高階から外へと身を投げ出して「落下」するが、それは実際のところ単なる見せかけ(フェイク)にすぎない

 

イヴ・クライン《虚無への飛翔》は、作家自身が二階から跳び上がる瞬間を撮った写真作品ですが、実はこの写真は合成写真でした。地上にクラインを受け止める人々が写っていたのをすげ替え、あたかも「空」へと作家が飛ぶように見せたものです

 

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《虚無への飛翔(空虚への飛翔)/Leap into the Void》http://www.yvesklein.com/en/oeuvres/view/643/leap-into-the-void/


 こうした《虚無への飛翔》を大岩は、「本来の力のやりとりではなく、そこで力が起こったかのように見せかけてしまうこと自体」として解釈し、また、《虚無への飛翔》という題名における〈虚無〉を「何かの痕跡を消したり、あるべき姿をずらしたりすること」と見なす。

 

  とするなら、そのような虚無への「落下」とは、一見して互いにクリアーに分離している二つの現象・状態・事物が、分離しつつも類似・錯認によって折り重なり、鑑賞経験のうちで不可視に関係付けれることであり、あるいは、そうした現象・状態・事物を隔てる境界そのものが鑑賞経験のうちで組み替わることではないか。

 

 「スローアクター」において、そもそも重力による垂直運動である「落下」は、相互に分離した現象・状態・事物が類似・錯認によって折り重なりつつも、その境界を撹乱しつつ組み替えることである。こうした「落下」は、空間的には水平に配置されたオブジェ同士の関係や、映像作品内部で展開されるモチーフとオブジェクトのモチーフとの関係に適用され、また、鑑賞者の背後にあるキッチンをバグの生じたコンピューターでコピー&ペーストしたかのように描かれたペインティング《OUTSIDE IS VIVID》と、現実に背後に存在するキッチンとの関係に適用される。

 

    のみならず、こうした「落下」において、あらゆる境界は静かに撹乱され、組み替わりつつも、同時に物質それ自体としてのオブジェクト同士は混ざり合うことなくキレイに切り離されている、という奇妙な事態が成立する。

 

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二階奥の展示スペース。不可視な落下が交差し合う。ペインティングは《OUTSIDE IS VIVID》

 

<見る>ことを彫刻し、多方向性の「落下」を配置する、「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示


 このように、本展覧会において配置された「落下」を誘うトリックは、実際の落下に伴う上下運動のみならず、オブジェ間との関係や時間的な前後関係、あるいは現実の事物とそれをコピーしたヴァーチャルなイメージとのあいだに認められることから、それは、エッシャーの《相対性》のように上・下、右・左、前・後ろ、奥・手前など、あらゆる方向に配置された多方向性の「落下」を誘うトリックである。

 

   そこでは、さながら熱を欠いた冷たい『不思議の国のアリス』のような、パラドキシカルな多次元宇宙が静かに、かつ不可視なものとして鑑賞者と作品とのあいだで展開される。

 

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《相対性》,1953年, All M.C. Escher works © the M.C. Escher Company B.V. -Baarn -the Netherlands. Used by permission. All rights reserved. www.mcescher.com

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Lewis Carrol:Alice's Adventures in Wonderland(https://greenonionblog.com/2017/03/06/alices-adventures-in-wonderland-by-lewis-carroll/

 

    そして、そのようなイヴ・クラインの思考を「プラグインのように導入」しようとする大岩は、そうした「落下」のうちでも、異なる時空同士を結びつけるような「落下」に着目している。

 

イヴ・クラインの考えていた時空間、時間的な虚無の発生をいかにインスタレーションの形式で再考し、実践化できるか。クラインを参照して、〈ものを展示する〉という独特な形式を、時空間の問題として緻密に取り上げるというのが、彼をモチーフとして採用した理由です

 

 そのうえで大岩は、各鑑賞者が自らの鑑賞行為によって作品や作品同士の関係を変容させ、また、それによって、鑑賞者自身の認識の枠組みそれ自体が変容してしまうような本展覧会の鑑賞経験を、「彫刻」という言葉で表現している。

 

展示というのは一挙にフラットに見えるものではなく、そもそも当の展示自体を、鑑賞者自身がどう見ることができるものなのかを彫刻していくようなものだと思います。見ているなかで、その見方自体がどんどん変わっていく。展示を見終えてもその人の見方自体が彫刻されて、変えられてしまうんです

 

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《MIRACLE OF NIAGARA》など、<水>たまりの上にいくつかのモチーフが浮かんでいる。

 

    本展覧会において、<見る>ことを彫刻し、そして、そのような<見え>を経験する自ら自身をを彫刻するように誘うさまざまな「落下」、あるいは≪虚無への跳躍≫のトリックは、あたかも美術作品の周りに張り巡らされた不可視な赤外線センサーのように、本展覧会の至るところに張り巡らされている。

 

 そして、本評で何度も述べたように、そのような「落下」のトリックはあくまで不可視なものであり、物質それ自体としてのオブジェ同士はキレイに分離し合っている

 

 つまり、一方で物質それ自体としてのオブジェは互いに分離しつつも、他方で鑑賞者と作品とのあいだで更新され続ける関係付けのフィードバックループにおいて、それらは融和し、混ざり合う。

 

 ゆえに、「スローアクター」において同時に経験される分離と融和の経験は、鑑賞者に対して、あたかも徐々に心身を蝕んでいく奇妙な毒のようなものとして作用する。

 

「スローアクター」という語は、毒や薬の性質である「即効性(immediate acting)」「遅効性(slow acting)」に由来しています。大岩さんは「immediate」は「media」に否定の接頭辞「in」が付いたものであることに注目します。つまり即効とは「中間物=media」がないものですが、しかし美術の実践とはむしろ何らかの媒介のうえに成り立たせるものです。そこでは常に理解のための時間を要し、「その時間のあいだに、理解・見方は当の対象によって更新される」──それゆえに美術は「slow acting」なのだと言います。

 

 幾つもの「中間物=media」を介在させることで、経験を更新させると共に遅延させ、また、多方向性の「トリック」によって鑑賞者を宙吊りにさせる「スローアクター」の展示は、展覧空間のなかだけにとどまらず、<見る>ことを中心とした知覚経験を組み替え、拡張する

 

 またそれによって、日常的な現実それ自体も同様にあたかも大量のブラウザが開かれた折重なり合うスクリーン画面のようなものに変容させ、組み替えてしまう。徐々に徐々に、あるいは気がつけばすでに、かつ決定的に。

 

 そのような「スローアクター」の展示は、まさしく「遅効性(slow acting)」ドラッグにほかならないだろう。

 

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*1:http://euskeoiwa.com/2019slowactor/

*2:

https://m.facebook.com/notes/contemporary-art-foundation公益財団法人-現代芸術振興財団/caf-note-vol-2-大岩雄典さんcaf賞2017-海外渡航費授与/2238328059741720/

*3:本評における大岩からの引用は全て、注1のインタビューからの抜粋。なお、太字は全て筆者によるもの

*4:前引用での「たぶらかされていく」の主語は明記されておらず、前文の主語である「対象」が「たぶらかされていく」とも見なせるが、むしろ鑑賞者自身の方が作品とのあいだの鑑賞関係によって「たぶらかされていく」と解釈することもできる。

「カントってどういう哲学者なの?」と聞かれたときのために【論考】

 本記事は、18世紀のドイツで活動した哲学者であるカントが、一体どのような哲学を構想していたのかについて、その最も基本的な大枠を提示するものである。

 哲学にあまり詳しくない人でも、カントの名前を聞いたことがある人は多いだろう。哲学史において、カントの登場は、その後の哲学史に決定的な影響を与えた──なんとなくそのようなことをどこかで聞いたことがある人もいるだろう。というのも、そのような説明は、哲学史におけるある種のクリシェであるからだ。が、その哲学の内容を説明せよと言われ、整合的で基礎的な説明を即座に与えられる人はそこまで多くないだろう(いつの時代の・誰の哲学でも同様かもしれないが)。

 本記事では、カントの哲学の特徴を幾つかピックアップし、ごく簡単な説明を与えている。ところどころ筆者の手による図を補ってもいる。「厳密なテクスト・クリティークなくして人文学研究は成り立たない」ことは確かだが、ざっくりと流れを押さえるという意味では、このような一見して雑でラフなまとめも、時として役立つはずだ。より内容が気になる人は、引用文献に当たると良い。

(また、筆者は、大学内でカント哲学の読書会をインフォーマルに行なっており(2019年2月現在)、学生・社会人問わず参加できるようにしているので、もし参加されたい方がいればツイッター・アカウントからDM等でお声掛けください。日本語で読んでいます。オンライン可)

 

① カントの経歴

イマヌエル・カント(1724-1804)

ドイツの哲学者。ニュートン物理学やルソーの人間主義など、当時の新しい思想の影響を受けながら、近代的な世界市民の立場から、ライプニッツ=ヴォルフの合理主義的形而上学とヒュームの経験論という思想対立を克服し、伝統的形而上学に代わる批判的形而上学を基礎づけた。広い学問領域を自由で自立的な人間理性の上に基礎付けたカントの思想は、ドイツ観念論、新カント学派などを経て、現代にいたるまで大きな影響を及ぼしている*1

→カントは、合理主義と経験論の対立を克服し、批判的形而上学を基礎付けた哲学者。

 

コペルニクス的転回とは何か?

コペルニクス的転回…カント自身の立場を特徴づける術語。

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「日常的な物の見方は、対象がまずあって、認識がそれに従うという暗黙の態度の上に成り立つが、〔カントの立場である〕超越論的観念論はそれを逆転させ、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とする」。*2

そのとき、認識は「経験とともに始まる」が「経験から生じるのではない」。*3すなわち、カントにおいて、客観的妥当性を持つ対象(Object)とは、ありのままの「物自体」ではなく、認識能力によって規定された「現象」と見なされる*4

 

ゆえに、カント以前と以後では認識の構図が全く異なる

 ③ カントにおける認識能力とは何か?

  1. 感性…「われわれが対象によって触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)が、感性と呼ばれる」*5
  2. 悟性…「表象(概念)をみずから生み出す自発性*6
  3. 理性…「われわれのあらゆる認識は感官から始まり、そこから悟性へと進み、理性のところで終わるが理性を越え出ては、直観の素材を加工してそれを思考の最高の統一のもとへもたらす高次のものは、何ひとつとしてわれわれにおいては見いだされない」*7。あるいは、「悟性が規則を介して諸現象を統一する能力であるとすれば、理性は諸悟性規則を原理のもとへと統一する能力である*8。 

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  • 認識能力同士の関係…「カントによれば、悟性〔悟性と理性〕と感性は経験論と合理論双方の見方に反して表象の全く相異なる源泉であり、しかも認識は本来、この二つの異種の能力の協働によってはじめて成立する*9

 →感性が受容の能力であり、理性が統一の能力であることから、このように図式化できる。しかし、とはいえ現象の認識それ自体はあくまでも認識能力同士の協働関係によってのみ成り立つ

 

哲学史におけるカントの立場 

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  1. ア・プリオリかつ分析的な判断…述語は主語に予め含まれており、その判断は経験に先立っているf:id:hiropon110:20190221145603p:plain
  2. ア・ポステリオリかつ綜合的な判断…述語は主語に予め含まれておらず、主語に付加される。そして、その判断は経験に依存するf:id:hiropon110:20190221145609p:plain
  3. カントの立場…カントは、予め主語に含まれていないが、とはいえ経験に先立つような「ア・プリオリな総合判断」があり得ると述べ、それによって、合理論とも経験論とも異なる自らの超越論的観念論という立場を主張する*10

独断論から懐疑論、そして批判主義へ

独断論ア・プリオリな分析判断を学の根底に置き、それによって形而上学が探求できると見なす立場。

  • バウムガルデン…「同一のものが、同時に、存在しかつ存在しないということは、ありえない」*11という矛盾律の原理を前提とし、「矛盾を含むものは不可能なもの(存在しえない)であり、矛盾を含まないものは可能なもの(存在しうる)ものである」と見なすことで、「矛盾を含まないもの=可能なもの」とし、矛盾律形而上学の第一原理と見なす
  • 独断論についてのカントの立場…「〔独断論は〕形而上学において純粋理性を批判することなく成果を収めようとする偏見」[B XXX]。カントによれば、独断論は理性が何を・いかに・どこまで認識できるのかに関する「理性能力についての先行する批判」を欠いている*12

 

懐疑論…ア・ポステリオリな総合判断を認識の根底に置く立場。それゆえ、神のような超越的存在を理性によって認識しようとする独断論は誤っていると主張。

  • ヒューム…因果関係の「必然的結合」は、二つの出来事がかつて隣接・継起して生じたという経験を一般化した結果生じておりであり、そのような判断は「理性の越権行為」であると見なす。
  • 懐疑論に対するカントの認識…「懐疑論は人間理性にとって休憩の場所である。というのも理性が自分の独断的なさまよいから目覚めることができるからである」*13と述べる一方で、「懐疑的に反駁することは、それ自体としては、われわれは何を知ることができるのか、また反対に何を知ることができないかということについて、何も決定しない*14ため、「懐疑論は、そこに滞在するための居住地ではない*15

 

批判主義ア・プリオリな総合判断を認めるカント自身の立場。「形而上学に属すことなら何であれ、それを扱う場合の批判主義は、(猶予の懐疑は、)形而上学の綜合的命題すべての可能性の普遍的な根拠がわれわれの認識のうちは、そうした命題全体を信用しないという確率である」[ⅥⅠⅠ 226f.]

  •  批判とは何か…「理性〔=広義の悟性〕がすべての経験に依存せずに切望するすべての認識に関しての、理性能力一般の批判のことであり、したがって、形而上学一般の可能あるいは不可能の決定、またこの形而上学の源泉ならびに範囲と限界との規定」。*16

 

まとめ

 従来の哲学が理性に基づいて形而上学を探求していたのに対し、カントは「私は何を知ることができるのか*17 という問いを根本問題と見なし、理性を含む認識能力について反省的に検討することを通じて、形而上学一般の可能・不可能や源泉・範囲・限界を規定する。そのような営みは「批判」と呼ばれる。

 批判において、カントは「われわれの認識が対象に従う」のではなく、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とする「思考法の転変(=コペルニクス的転回)」を洞察し、我々において客観的妥当性を持つ対象(Object)は、「物自体」ではなく認識能力によって規定される「現象」であると見なした。

 また、カントは、認識能力を、上級認識能力である悟性と下級認識能力である感性とに分割し、両能力の協働によって認識が成立すると述べる。そして、カントは自らの哲学を超越論的観念論と呼び、哲学史に置いて他の立場と自らを区別している。その際、カントは分析と綜合、ア・プリオリとア・ポステオリという四象限に基づいて自らの立場を弁別している。

 このような問題構成のもとで、カントは、『純粋理性批判』において「感性と悟性、経験と理性、経験論と合理論とを媒介し調停しようと」していると考えられる*18

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縮刷版 カント事典

縮刷版 カント事典

 
純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

 
カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

 
カント純粋理性批判の研究

カント純粋理性批判の研究

 

*1:純粋理性批判』(原祐訳、平凡社)より。

*2:『カント事典』p. 184

*3:純粋理性批判』[B 1]

*4:カントは、我々にとって認識可能な対象は物自体ではなく現象であると見なす。では、それは「存在とは知覚されることである(世界に存在するのは我々にとって知覚される観念だけである)」とするバークリの主張とどう違うのか。それについては『プロレゴメナ』「超越論的主要問題」の第一章「純粋数学はどうして可能か」の注を参照

*5:[B 33]

*6:『カント事典』、p. 180

*7:[B 355]

*8:[B 359]

*9:『カント事典』、pp. 180-181

*10:

「超越論的」とは「対象にではなく、むしろ、対象一般についてのわれわれのアプリオリな諸概念に係わるすべての認識」のこと[A.11f]。また、「超越論的観念論」については以下を参照。

「カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観である」(『世界大百科事典』第二版、平凡社

*11:ヴォルフ『第一哲学』

*12:カント『純粋理性批判無用論』[Ⅶ226]

*13:[B 789]

*14:[B 791]

*15:[B 789]

*16: [A XII] 

*17:[B 833]

*18:『カント事典』、p. 246

『欲望会議』出版記念イベント メモ(1/31) 【イベントレポート】

本記事は、ゲンロンカフェで一月三一日に行われた『欲望会議』(KADOKAWA,2018)の出版記念イベントのメモである。なお、このメモは、その場で取った記録を下敷きとしているが、どの発言がどの登壇者と対応しているかを記録していないため、あくまで本メモはイベント全体における流れの中から幾つかの論点を抽出し、それを敷衍するという叙述の形式を採用しており、発言を個別の登壇者と厳密に対応させない。その意味で資料的な価値は低く、その場で語られたことの内容を若干伝える程度のものであることは予め了承されたい。

 

脱規範化の流れ


・登壇者らによれば、90年代には宮台真司のナンパ肯定論のように、脱規範化を肯定するような議論がまだあった。当時からそうした脱規範化を肯定するような議論と距離を取る流れはあったが、しかし、本当に宮台的な脱規範化肯定論の力が落ち、「学級委員」的なものが台頭するようになったのは最近のこと。たとえば、90年代にゲイ・リブを牽引し、そして『欲望問題』でゲイの欲望の問題に正面から向き合った伏見憲一なども、90年代の非「学級委員」的な言説の一つだった。『欲望会議』の先行研究は『欲望問題』。90年代の『欲望問題』や上野千鶴子の『発情装置』などは、社会的公正から取りこぼされてしまう当事者のドロドロした欲望を正面から扱っており、当時のフェミニズムクィアスタディーズには、社会的公正の流れと各人の欲望を肯定する流れという二つの流れがあった。そうした歴史的背景を全て捨象してしまうから、柴田英里の言説が何故フェミニストの立場であると言えるのかが理解できなくなる。

社会規範を疑うフェミニズム


・そもそも、フェミニズムには社会規範・道徳規範そのものに対する意義申し立てを行ってきた経緯があり、規範そのものを疑うということは普通のことだった。仮にそのようなフェミニズムを「フェミニズム左派」であるとすると、社会規範・道徳規範の遵守に高い価値を置くフェミニズムは「フェミニズム右派」である。たとえばフェミニズム右派の代表的な例としては、「女性は家庭の天使」という標語で有名なアメリカの「福音主義フェミニズム」のようなものがある。もともと、アメリカはピューリタンの国であったことから、その地で女性が選挙権を獲得するためには、自らがより道徳規範的な存在であることを理由としなければならなかった。しかし、そのような規範的な存在として女性自身を位置づけることは、セックス・ワーカーに従事する女性を「汚い」女性、あるいは女性ならざる女性として排除し、女性同士のあいだで分断を生むこととなってしまう(だが、福音主義フェミニズムがそのような立場を取ることには、社会関係が資本主義によって商行為・商業取引に変質させられてしまうことと関係している。いわば、「家族」は、商行為・商業取引から逃れるための最後の拠点といったものでもあり、家族への回帰は資本主義の流れに対するある種のバックラッシュであると言える)。

魂の殺人


・また、二村ヒトシは「傷つき」というワードを多用するが、もし女性に対してよりそのワードを使っているとするなら、それは規範的な抑圧を性差に基づいて強化していることにならないか。規範的な抑圧を性差に基づいて強化するという意味では、メディアがレイプを「魂の殺人」と形容することもまたそうである。小説家の松浦理恵子もまた「魂の殺人」という言葉を批判しているが、もしレイプが肉体的な傷だけではなく、魂に対する傷であるとするなら、それは肉体の傷よりも永続する傷であり、女性が単に女性であるという理由によって、再起不能な傷をレイプから受けるということになってしまう。それは、男女の非対称に基づいてスティグマを再生産していることに他ならない。

穴秘密と石秘密


・千葉の『意味がない無意味』(河合書房)では、ポスト構造主義以降の言説を整理し、のみならず人間の本質を説明するための概念として、穴と石という二つの概念が導入されている。穴は、ラカン精神分析で言うところの現実界であり、到達することはできないが人間がそれを求めてグルグルと巡り続けてしまうものであるような、心の穴・傷・ブラックホールである。スキーマ療法で言われている「スキーマ」も、実は「穴」のこと。
そもそも精神分析によれば、こうした穴は、子供が母との二者関係から寸断されたときに生じる。そして子供は母の喪失と引き換えに言葉を覚えるが、それは「穴」に対処するため。被分析者は、分析家とのあいだで「穴」をめぐって終わることのない言葉の解釈を行う、これが精神分析の基本的な枠組み。それに対して石は、ただ物質的に存在するものであり、言葉を生産し続けるのではなく言葉を消尽させ、物語とは別の次元に存在する秘密である。石的な秘密には理由がなく、トラウマはそこでは無理由なものでしかない。加えて、穴-秘密をめぐって解釈を延々と行い続けるというのは、どちらかといえば近代的なモデルである。たとえば古代では心身は分離しておらず、人間はあくまで心身のトータル・バランスを調整することによって魂のステージを上げる。後期のフーコーが近代以前の魂のあり方を評価するのはそこと関係している(セネカなどの著作では、怒りをどうやって抑えるかなどの話をずっとしている)。インターネットとSNSの普及は、いわば穴的な傷付きを加速させているのではないか。

 

能動と受動


・また、近代は能動と受動を分け、そして近代における精神は能動であることが自然本性としてプリセットされており、受動になるという経験自体が自然本性に反する「傷つき」の経験となる。このことから、受動を強いられる女性は人間である以上能動でなければならないのにも関わらず、文化社会的な理由によって受動的な立場に置かれている。そのことが「傷つき」の核にあるのではないか。


フェミニズムの歴史的背景


フェミニズムは第一波・第二波・第三波というふうに分けられる。

  1. 第一波フェミニズム:19世紀後半から20世紀前半にかけてのもの。「参政権」獲得をはじめとした社会制度・社会構造改革。「男/女」モデル。
  2. 第二波フェミニズム:1960年代から1970年代。性と生殖の政治学、中絶論争などのリプロダクティブヘルス&ライツ。「男/女」モデル。
  3. 第三波、ポスト・フェミニズム:1980年代以降、異性愛、西洋白人、中産階級中心主義への批判を踏まえたカルチュアル・ポリティクス領域。「男/女」「異性愛者/非異性愛者」「白人/非白人」「中産階級/それ以外」モデル

 

またフェミニズムは右派と左派に分けられる。

右派:保守主義キリスト教福音主義フェミニズム
左派:ラディカル・フェミニズム…「個人的なことは政治的である」(by ケイト・ミレット)公的領域と私的領域における男女の性差の根源を問う。
エコ・フェミニズム…近代資本主義国家において無〔価値されている女性や〕自然の復権。男女の差異視点
マルクス主義フェミニズム…性別役割分担の解体を〔目指す〕。
唯物史観を「男/女」の枠組みの中でも徹底させることを〔目指す〕。男女平等視点。
ポスト・フェミニズムポストモダンクィア・セオリー
「主体/客体」だけでなく「行為遂行体(エージェンシー)」〔を重視する〕。男女の差異視点。

 

フェミニズムはこのように分けられる一方で、所々で重なっているところもある。たとえばポルノ規制問題について論じたマッキンノンは、第二波フェミニズムの系譜でありながら、社会制度改革志向という点で第一波フェミニズムと癒着し、また道徳規範に訴えかけるという点でフェミニズム右派と癒着する。

・柴田英里自身の立場はというと、第三波フェミニズムの亜種。第三波フェミニズムは「男/女」という図式にとどまらず、様々な対立図式のもとに「男/女」という図式を相対化することから、近年では第二波フェミニズムに回帰する傾向がある。しかしそこでは共感中心主義が台頭しやすく、同調圧力による中心/周縁の分割が起こりやすい。
・そもそも、フェミニズムは一枚岩ではなく、むしろ互いに敵対することなども多い。また柴田によれば、保守化した第三波には「学級会」的な人が多く、彼女たちは道徳規範に訴えかけるという点で保守化しており、社会規範自体を疑うという視点がない。
フェミニズムの歴史的背景に関しては、柴田英里が当日使用していたスライドに全面的に依拠している。また、括弧で示した箇所は、写真で撮ったスライドの写真が切れていたため、筆者が恣意的に補った箇所)

 

フェミニズム国家主義との関係

・本当は「コンビニのエロ本撤去」を擁護するような立場だけがフェミニズムではない。表現規制派反対の左派フェミニズムは、基本的にアルチュセールフーコーを前提にしている。フーコーを前提とするなら、共感に基づく問題設定は国家権力が治安を維持するために要請する構築物以外の何物でもない。「コンビニのエロ本撤去」は、2020年に開催される東京オリンピックパラリンピックゆえに為されるのであり、「コンビニのエロ本撤去」を素朴に肯定するフェミニズムはある種の国家主義ではないか。このことは禁煙問題についても同様である。国家構成員である国民がより健康になることを肯定し、健康を規範化することは、不必要な医療費を増大させることなく淡々と労働して税金を納めるような、管理しやすい国民を作ることとパラレルではないか。萱野稔人によれば、そもそも国家とは巨大なヤクザであり、健康増進政策は国家が純粋に国民のためにやっているわけではない。

エモプティコンと優生思想子供の神聖視


・また、健康な身体を規範化することは優生思想と極めて深く関係している。戦時中のナチスの健康政策は非合理的なものではなく、むしろ過剰に合理的なものである。すなわち優生思想とは合理性のある種の帰結である。(アドルノ、ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』と同様の論点)
・対して、セックスは合理化することはできず、仮にそれをしてしまえばセックスはセックスではなくなってしまう。その意味で、性愛と公共性は敵対しあう(と同時に、公共を維持する規範こそが欲望を生産しているという観点もあるため、ことは単純ではない)。
最近出版された『ダークウェブ・アンダーグラウンド』(イーストプレス、2019)では、ドラッグを売り買いする闇のアマゾンの話と、ペドフィリアの問題が扱われている。前者は商行為がそれなりに成立しており、後者は商行為が成立していないほとんど贈与の空間である。ドラッグは闇の石油みたいなものであるが、ペドフィリアグローバリズムの傷・穴として現出しており、本物の複製によって性的に充足するペドフィリアたちは空気をエネルギーにできるような人たちであり、ペドフィリアに批判的な人は、実のところそうしたペドフィリアが羨ましいと思っているのではないか(というふうに指摘することが構造的にできる)。
・また、子供の神聖視は、子供という不気味な存在から不気味さを取り除きたいのではないか。子供が性的な主体であることを否認することは子供の権利を奪うことではないか。当時のマルクスフェミニズムであれば、子供を性の主体として肯定するという理路もあったはず。

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

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欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない

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発情装置 新版 (岩波現代文庫)

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健康帝国ナチス (草思社文庫)

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ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち

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手をあげる-手があがる=?(『それは私がしたことなのか』第一章と第二章)【書評】

 本記事は、古田徹他『それは私がしたことなのか  行為の哲学入門』(新曜社、2013年)の第一章と第二章のメモである。本書は三章構造になっている。著者がエピローグでも述べている通り、第一章と第二章はいわゆる「心の哲学」と関連しており、第三章は「責任」「義務」「過失」「罪」などの概念を扱う、いわゆる「倫理学」の議論と関連している。著者は、行為論を「心の哲学」と「倫理学」という二つ分野にまたがる分野である、と述べている。本記事では、「心の哲学」に関連する箇所だけをメモする。

 

 

第一章 行為の意図をめぐる謎

1-1行為とは何か、あるいは意図とは何か

「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』、第六二一節) 

 行為とはなんだろう。一般に、行為は「自分の自由な意思で何らかの目的を達成しようと試みること」であるが、それは単なる出来事とは異なり、行為者の「意志」「意図」「主体性」などが含まれる。「手があがる」ことが単なる出来事なら、「手をあげる」ことは行為だ。主に英米で議論されている「行為の哲学」は、先のヴィトゲンシュタイン の問いによって始まった。

 行為に関わる心の働きは意図(intention)・欲求(desire)・信念(belief)の三つに分けられる。たとえば「トンカツを食べる」という行為には、それが可能だという「信念」がまず要される。(その信念が正当化されたなら、それは「知識」と呼ばれる)そして、その行為が欲求され、意図されることで、「トンカツを食べる」という行為が実現する。ただし、欲求のあとに必ず意図が来るわけではなく、また意図のまえに必ず欲求があるわけでもない。意図はある行為にコミットメントするものであり、欲求はそうではない。三者の関係は以下のように図式化される。

 

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(本書、p. 11の図) 

 上記の図を前提とした上で、再度行為を定義するなら、それは「欲求の有無に関わらず、実行することが可能であるという信念を持って何らかの目的の達成を意図して試みること」であると言える。

   次に、上記の図からも分かるように、行為には必ず意図が必要とされている。だが、そもそも意図とは何か。

 仮に「手をあげよう」と内言することや、それをイメージすることが意図することであるとする。しかし、そうした内言・イメージは一つの独立した行為ではあれど、実際に「手をあげる」ことの原因ではない。というのも、「手をあげよう」と内言しつつもそうしないことが我々には常に可能だからだ。加えて、もしそれらが独立した行為であるなら、その行為にも意図が必要である。すると、「意図すること」には更に別の意図が必要になる。そして、またその別の意図にも同様に意図が存在し、以下、この意図は基礎付られることなく無限後退する。このように、意図を行為の原因と素朴に見なすことには何かしらの困難が存在する。かといって、行為の意図に内言やイメージが介在されないならば、我々はそれを想像することができない。そうした「謎の出来事」が行為の原因であると見なすためには、然るべき根拠が必要だが、「謎の出来事」にはそれが欠如しており、説明として適切ではないと本書では見なされる。

  心の働きの一種である意図が行為を引き起こす──通常ならばそう考える。だが、そもそも「心の働きが出来事を引き起こす」というモデル自体に問題があるのではないか、著者の古田はそのように述べる。心身問題の歴史はデカルトにまで遡る。

1-2 心身問題の歴史と「機械の中の幽霊」

 デカルトは思惟実体と延長的実体を実在的に区別したが、それによって、自然の機械論的な因果連鎖に心の働きが如何に作用するのかという「心的因果」の問題が浮上した。そのような心を、イギリスの哲学者であるギルバート・ライルは「機械の中の幽霊」と呼ぶ。

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 (本書、p. 34より)

 

 デカルトは、心的因果をそれ自体疑うことの出来ない原始的事実と見なしたが、ライルは、デカルトのように心を実体化する考えを「カテゴリー・ミステイク」を犯していると批判する。ライルによれば、カテゴリー・ミステイクとは異なるカテゴリーを混同することである。カテゴリー・ミステイクについて、ライルは以下のように述べている。

 

ある外国人がオックスフォード大学やケンブリッジ大学をはじめて訪れ、まず多くのカレッジ、図書館、運動場、各学部、事務局などに案内されるとする。そこでその外国人は次のように尋ねる。「しかし、大学は一体どこにあるのですか。私はカレッジの構成員がどこに住み、事務職員がどこで仕事をし、科学者がどこで実験しているのかなどについては見せていただきました。しかし、あなたの大学の構成員が居住し、仕事をしている大学そのものはまだ見せていただいておりません」。この訪問者に対しては、この場合、大学とは彼が見てきたカレッジや実験室や部局などと同列の別個の建物なのではないということを説明する必要がある。まさに彼がすでに見てきたものを組織立てる仕方が大学に他ならないのだ。すなわち、それらのものを見て、さらにそれら相互の間の有機的結合が理解されたときにはじめて、彼は大学を見たということになるのである。彼の誤りは、クライスト・チャーチ、ボードリアン図書館、アシュモレー博物館、そして大学というように並列的に語ることができる、と考えた点にある。…すなわち、彼は大学というものを他の諸々の建物が属しているカテゴリーと同じカテゴリーの中に組み入れるという誤りを犯したのである。(ライル『心の概念』、みすず書房、pp. 12-13)

 

ライルによれば、身体と心という二つの実体を措定するのは誤りであり、「行為とは傾向性が発現することである」という。心の働きは傾向性と見なされ、身体の動きはその発現と見なされる。このような立場は、心を客観的に観察可能な様々な振る舞いや変化と見なす点で「行動主義」と呼ばれる。行動主義は、デカルトが唱えた「動物機械論」の延長線上に人間を位置づけるため、それはある種の「人間機械論」のプロトタイプであると本書では位置付けられる。

 また、「身体を動かす幽霊のような働きなど存在しない」というのがライルの立場なら、「そもそも心など存在しない」というのが「物的一元論」であり、「消去主義」の立場である。消去主義者は「心の働きは脳の働きである」と考え、それは「フロギストン」などと同様に科学の発達によって消滅する概念であると見なす。そして消去主義の立場において、自由意思は存在せず、物事は全て機械論的に因果連鎖する。

  こうした決定論は「ミルグラム実験」やベンジャミン・リベットの実験などによって科学的な実証されたかに見えるが、そのような実験においては、「意図」の概念が曖昧に用いられており、したがって「意図」とは何であるかをまず明らかにされなければならない。

 

ミルグラム実験」あるいは「アイヒマン実験」と呼ばれる、人は任意の状況に置かれると残虐な行いをするというミルグラムの実験。

esdiscovery.jp/vision/word001/psycho_word31002.html

意識的な意思決定が行われるよりまえに、すでにそれを促す「準備電位」が発生している、というベンジャミン・リベットの研究。

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

 

第二章 意図的行為の解明

2-1 心の働きは脳の働きではない

 心の働きを脳の働きと考えることには無理がある。このことに関連し、本書では四つの理由が述べられる。

①意図や信念は「始まりの瞬間」を特定することが困難であり、また、そうした瞬間は我々においてそもそも問題とされない。自転車に乗っているとき、我々は自転車に乗っていることを常に意識しているわけではない。しかし、自転車でスーパーへ行こうとする行為は、行為者によって意図された行為である。あるいは、「始まりの瞬間」が自らによって自覚的に意識された瞬間ならば、そうした自覚的な意識は実際の因果連鎖において直接的な役割を果たしていない(この論点は、ベンジャミン・リベットの実験に対するダイレクトな反証となっている)。

②また、信念や意図は長時間持続する。受験を控える受験生は一年間受験勉強をするが、そのあいだ常に受験に意識を集中させるわけではない。「何かを信じる・意図すること」と「何かに対して意識を集中すること」は異なる。

③また、意図された行為は一般に再記述が可能である。「自転車に乗ること」は、「スーパーに行くこと」や「夕食を用意すること」の一環として再記述できるし、また「ペダルを漕ぐこと」や「ギヤを変えること」といった微細な行為の束としても再記述できる。

④加えて、信念は単純な行為のうちにも膨大に見出すことができ、「信念のインフレ」が生じる。

 心の働きを脳の働きと同一視する背景には、行為当事者と行為非当事者のあいだには非対称性が存在する、という考えがある。この非対称性は一人称権威(first person authority)と呼ばれる。我々は、行為の意図を最もよく知るのは、あくまで行為の当事者であると見なしている。そして、一人称権威は「心が身体の内部に隠蔽されている」という考えと癒着しやすく、この考えは「隠蔽説」と呼ばれる。霊魂であれ脳であれ、それらは隠蔽説の考えに則っている。隠蔽説はみな「心は(条件つきで)観察可能である」と見なす。一元論者は外的な装置(fMRIEEG)によって、二元論者は内観によってそれが可能であると見なす。 その点で、両者は類似した立場であると考えられる。

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(本書、p. 84より)

 

2-2 本書の基本的なスタンス

 それに対し、本書の立場は英米の哲学者であるアンスコムデイヴィドソンの立場に依っている。本書の目的は、ある意味では行動主義に陥ることなくライルの立場を引き継ぐことである。

   両者は「行われた理由を尋ねられ、行為者当人がそれに答える」というコミュニケーションに着目する。たとえばアンスコムは以下のように述べる。

 

「意図的行為とは、ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為のことである」(アンスコムインテンション』、産業図書、p. 17)

 

 

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(本書、p. 101より)

 

 この立場において、身体内部には何も隠されていない(詳しくは割愛)。

  だが、この立場では、意図はすでに為された行為の理由を述べる際に遡行的に見出されるものであり、その意味で、意図は仮構された虚構物ではないか、とする反論はあり得る。この反論に対する本書の解答こそ、本書において最もユニークな箇所だろう。たとえば、「意図」を行為の前にすでに存在するものではないとする主張は以下のようなものである。

 

「理由過程は無時間的である。行為に時間的に先立って遂行される内的過程ではない。すなわち、理由過程は行為の「原因」ではない。理由過程において導出した理由が行為の「理由」となる。この理由過程は、行為後に、過去に遡って、行為において遂行されていた過程として構成される」(瀬川裕英『責任の意味と制度──負担から応答へ』、勁草書房、p. 104)

 

 アンスコムは行為の理由と原因を区別し、行為の理由を事後的に「構成される」ものと見なす。重要な点は、この立場が行為の理由を事後的な構成物と見なす一方で、事後的に意味付与する回顧行為より以前に「生の過程」が存在している、と(暗に)前提するところである。つまり、この立場は、行為の理由を虚構に位置付けると同時に、「本当の行為の過程」のようなものを前提としてしまう。

 しかし、「我々が回顧する以前に存在する」という行為の過程もまた、同様に語られることによってのみ見出される。行為の過程が回顧される以前においても存在する、という立場には有用性がある(たとえば自然科学)。だが、もちろん有用性は正しさを保証するわけではない。たしかに、回顧されるより以前において「生の過程」が存在するかもしれない。しかし、過去が全て回顧されることによってしか見出されていないことは事実である

 とはいえ、この主張は「人間によって回顧され、語られる以前には、過去は存在しない」という、過去の実在を否定する主張に帰結するわけではない。あえて言うならば、「過去は実在するかもしれないが、それを我々は知り得ない」という不可知論の立場に最も近い。

 

2-3 「それ以上の実在論へも反実在論へも踏み込まず、両者の間をかいくぐり続けること」

   ところで、『時間論』における中島義道の立場は、一見して類似しているが、上記の立場とはまた異なる。中島によれば、回顧する以前に過去は存在せず、したがって過去と対比される現在もまた存在しない。そのため、中島は以下のように述べる。

 

「『過去』という観念が登場してはじめて、われわれはそれとの対比から『現在』という観念を手に入れ、両者の関係においてはじめて『時間』という観念を手に入れる」(中島義道『時間論』、ちくま学芸文庫、p. 29)

 

 また、中島は以下のようにも述べている。

 

「だから、何も想起せずただ漫然と湯に浸かっている場合、すなわち過去を登場させない時、私は同時に現在に開いていない。私は時間以前の状態にある」(ibid, p. 25)

 

 中島は回顧以前において時間は存在しないと見なす一方で、「時間以前の状態」は存在すると見なしており、本書はその点を批判する。というのも、仮に回顧以前において何かが存在していたとしても、語られる以前において存在するものを、実際に語ることにおいて示すことはできないからである。中島の記述を引いたのち、古田は「自分たちの知る過去はすべて回顧されたものだということである、それ以上でも以下でもない。重要なのは、ここで踏み留まり、それ以上の実在論へも反実在論へも踏み込まず、両者の間をかいくぐり続けること」であると述べている(p. 114)。 

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(本書、p.114より)

 

2-4 心の働きと言語的なコミュニケーション 

 ライルが述べているように、心の働きの見なされてきた意図や信念は、脳であれ魂であれ「これ」や「あれ」と指示できるモノと同列に並べられる存在ではない(カテゴリー・ミステイク)。いわば、意図・信念は「語られる得るもの」だが「指し示されるもの」ではない。このことは、「重さ」「短さ」「軽さ」などの量的カテゴリーが、それ自体として存在しているわけではないことと同様である。つまり、意図・信念によって引き起こされる出来事は指し示すことが出来るが、意図・信念それ自体を指し示すことはできない。

 また、意図・信念を語る言葉は、他の言葉との関係において意味を持つ。言語は指示対象と恣意的に関係する、自立した閉じたシステムである。そして言葉は部分の総和ではなく、全体が部分に先立っているという意味で「全体論的性格」を持っていると言える。加えて、こうした言葉の性格に関連して、ヴィトゲンシュタインは以下のように述べている。

 

「ひとつの文を理解しているというのは、ひとつの言語を理解しているということである。ひとつの言語を理解しているというのは、ひとつの技術に習熟しているということである」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』、第一九九節)

 

 「ひとつの技術に習熟している」とは、特定の言語を用いて営まれる文化のうちで生活することができる、ということを意味する。人間は膨大な数の言語的なコミュニケーションのうちで、言葉の意味を発生的に理解するようになっていく。

  意図・信念は、「理由への問いに対する返答」という言語コミュニケーションにおいて見出されるものに過ぎない。ゆえに、意図・信念は言語的に存在する「言語的存在者」として考えられ、行為の成立根拠は、身体内部に局在する脳・魂に見出されるのではなく、多大な年月の上に成立している言語的コミュニケーションの只中に見出される

 ライルは「傾向性とその発現」を客観的に観察可能な振る舞いの束と見なすが、本書において、古田はライルと同様の「傾向説とその発現」を、言語的コミュニケーションにおける「(ヴィトゲンシュタイン 的な意味での)技術とその発揮」として読み替える。

2-5 心の働きは物質の働きに付随(スーパー・ヴィーン)する

 繰り返せば、「どのような出来事も回顧される限りにおいて存在する」ということは、同時に「時間以前において何らかの出来事が存在する」ということを含意するわけではない。そして、出来事はミクロにもマクロにも再記述することが可能であるが、再記述の数だけ出来事が複数存在しているわけではなく、また、一方の記述が他方の記述の原因および結果であるわけでもない。ゆえに、心的な働きの過程として回顧された出来事を物理的な因果連鎖として再記述することは、心的な働きを物理的な過程に「還元」すること意味しない。心の哲学において、この種の事態は「心の働きは物質の働きに付随(スーパー・ヴィーン)する」というふうに表現される。

 加えて、このことに関連して、デイヴィドソンは以下のように述べる。

 

「主観的な状態は、脳や神経系の状態には付随しない。つまり、二人の人間が、互いにそっくりな物理的状態でありながら、似ても似つかぬ心理的状態をもちうるということである。もちろんこのことは、心的状態が物理的に付随しないということを意味するわけではない。というのも、実際、心理的状態が異なるならば、どこかに物理的な違いがなければならないからである。だが、その重要な物理的違いは、人間の中にはないかもしれないのである」(デイヴィドソン「心に現前するものは何か」『主観的・間主観的・客観的』、春秋社、p. 108)

 

 このようなデイヴィドソンの議論を受けて、古田もまた同様に「心の働きが、脳の働きという時間的空間的に狭い範囲の物理的過程には対応しない」ため、物理的過程とは脳に局在するものではないと述べる。つまり、「人がある言葉の使用法をどのように学んだかという自然な来歴の諸相が、必然的に、言葉が意味する事柄にも影響を及ぼす」のであり、「我々の言葉が意味する事柄は、部分的に、我々がその言葉を学び、使用した環境によって決定される」のであるから、実際に心の過程に対応するのは、主体を取り巻く環境全体を含む物理的過程のことであると古田は述べる(デイヴィドソン「自分自身の心を知ること」『主観的・間主観的・客観的』、p. 40,55)。

2-6  決定論を反駁する際の根拠

 こうした物理的過程の規定は、時空間上において極めて幅を広く取ることから、神経科学における作業仮説にはなり得ない。このことは、本章全体において一貫する、決定論を反駁する際の根拠である。なぜなら、「決定論の多くが、心的過程を脳の短時間の物理的過程と同一視することに基づいているからである」(p. 131)*1このように述べた上で、古田は、「論理的には決定論が正しいか否かを判断することはできないものの、実践的には我々は自分たちの行為を決定論的に語ることはできない」と結論する(p. 132)。

 

まとめ

「手をあげることから手があがることを引いたら、何が残るか」というヴィトゲンシュタインの問いに対し、古田は、そこには意図が残ると述べ、しかし、その意図は一人称的権威に基づいて心・脳に局在する働きとして見なされず、「理由を尋ねる問いに対する応答」という言語的コミュニケーションにおいて見出されるものであると述べた。

 意図はすでに為された行為を回顧する際に、事後的に見出されるものであるため、行為をもたらす原因であると考えられる自覚的な自己意識とは区別される。とはいえ、そのような意図は回顧によって作り出された虚構ではなく、しかし虚構ではないとも言い切ることができない。というのも、意図は常に既に回顧することによってしか見出されたことがなく、たとえ虚構ではないとしても、我々はそのことを知り得ない。そして、意図が虚構であると端的に規定し得ない以上、そのような虚構とは別に、行為において「生の過程」が存在すると仮定する必然性もまたない。どちらにせよ、意図が虚構かどうかは不定であるが、意図が回顧によって見出されるという事実それ自体は疑い得ない。古田は、その事実から行為の原因になるような何かの実在を肯定することも否定することもしない(あるいは、する必要はないと考える)。

 とはいえ、行為が再記述可能性に開かれている以上、それは物理的過程としても心的過程としても記述しうる。ただし、その記述の数だけ行為が存在するのではなく、また、ある記述が別の記述の原因および結果と見なされることはない。したがって、心的過程と物理的過程という記述同士の関係は、デイヴィドソンの言葉で言うならば対称的な関係である。

 また、このことを自由意志と決定論との関係において記述し直すならば、一方で決定論が正しいかどうかは論理的には分からないが、他方で、我々は自らの行為を決定論的に語ることができないため、我々が自由意志を持ち得ないと断定することは困難であり、また不合理であるといえる。(その意味で、本書の議論は、帰謬法を用いた自由意志の擁護であるといえる)。というのも、意図は言語コミュニケーションにおいて見出されるが、言葉は全体論的な性格を有しており、また、ある言語を理解しているということは「ひとつの技術に習熟している」ということである。「ひとつの技術に習熟している」とは、特定の言語体系を用いた文化的生活の送ることができるということであり、したがって、「言語という脈絡においてのみ、文は(またそれゆえ語も)意味を持つ」とデイヴィドソンが述べているように(デイヴィドソン「真理と意味」『真理と解釈』、勁草書房、p. 9)、言葉はスタティックでありかつ全体論的なシステムとして存在する。それと同時に、人間が言葉の理解する場合、言葉は一個の全体としてダイレクトに与えられるわけではなく、特定の時空環境において繰り返し使用されることを通じて理解される。その際、言葉のやりとりは、自由意志が存在することを(表面上は)前提とした文化のコードに基づいて交わされる。ゆえに、「実践的には、我々が自分たちの行為を決定論的に語ることはできない」。

 

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

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哲学探究

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*1:とはいえ、この論証は不十分であるように思われる。「心の働きは、何年何十年にもわたる時間的空間的な極めて幅の広い複雑な物理的過程に付随する」という命題から「心的過程は物理的過程に置き換えることができる」という主張を導き出すことが出来ない理由として、古田は、そうした物理過程を把捉することが現に不可能であり、これからも不可能であることを挙げている。そして、「ある心的な出来事が物理的な出来事であるからといって、その出来事が心的ではなく物理的だということにはならない。同一性とは、対称的な関係なのである」というデイヴィドソンの記述を引き、自らの説を補強している(ibid, p. 130)。しかし、それは、あくまでも「現にそうである」ということに過ぎず、「そうなり得る」という可能性を完全に否定しているわけではないという点において、筆者は論証として不完全であると考える。たとえば、「未婚者とは未婚者のことである」という命題は、いついかなる状況においても真である。本書に挙げられた論証は、「現にそうである限りにおいて正しい」が、わたしの挙げた命題はその論理形式によって真偽が確定しており、両者の真理性を比較した場合、前者の真理性は後者の真理性に劣る。ゆえに、この論証は完全なものではなく、前提と帰結される主張は仮説的なものに他ならない。つまり、わたしは物的一元論の反論は有効であるように考えたているということになる

心ならざる魂、その統一的理解への予備的考察【論考】

アリストテレスの『霊魂論』について書きました。以下、題名と目次です。

 

心ならざる魂、その統一的理解への予備的考察

はじめに
 第一章 心身問題を巡る状況
  第一節 生命における物体的なものと非物体的な働き
  第二節 デカルトにおける心身二元論と心的因果
  第三節 デカルト心の哲学に与えた影響とアリストテレスの魂
 第二章 アリストテレスの心身一元論
  第一節 質料形相論
  第二節 現実態と可能態
  第三節 運動と自然
  第四節 生命原理としての魂
終わりに

 

30,000字分ありますが、第一章と第二章には本質的な連関性がなく、また第一章はあまり読むに足る内容ではないので、第二章から読んでもらえると幸いです。アリストテレスの『霊魂論』のみならず、もしアリストテレスの哲学にご興味があれば是非。(とはいえ、もし本当に興味があるのなら、創文社から出ている牛田徳子の『アリストテレス哲学の研究』を読むことをお勧めします。アリストテレスの基礎概念をかなり手堅く論じていて、非常にスリリングな本でした(まだ全部よんでないけど)。絶版本であるところが難点ですが)

 

この夏はずっとこの文章を書くために関連文献を読んでいたので、やっと解放されて肩の荷が下りました。暫くはアリストテレスから離れます。Goodbye Aristotle!

https://drive.google.com/open?id=10VTTmGn3sNC2c7AgVq1wMPicLOq-56aj

 

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形而上学〈上〉 (岩波文庫)

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アリストテレス全集 6

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アリストテレス全集 3  自然学

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哲学の歴史〈第1巻〉哲学誕生―古代1

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アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

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