たのしい知識 Le gai savoir

たのしい知識 Le gai savoir

ことば|記憶|アーカイブ

生殖と性愛の分離と国家への自発的隷属──『殺人出産』評──

今から100年前、殺人は悪だった。それ以外の考えは存在しなかった。私が幼稚園くらいのころもまだ、殺人は悪という考えが根強かった。殺意を冗談めかして言う人はいたが、本気だと捉えると殺人予告と見なされ通報されたりするような、デリケートなものだった。ましてや殺人は、どんな理由があろうと全て罪だった。母からそう教わっていたし、幼稚園で「殺すぞ」なんて言葉を冗談でも口にした男の子は、先生からこっぴどく叱られていた。

 

 『殺人出産』の冒頭、「私」は殺人出産システム「以後の世界」から「以前の世界」を回想する。そして、以下のように回想を続ける。

 

もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精で産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすること、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。偶然的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺していい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。(pp.13-15)

 

 「私」が生きる世界において、生殖技術の革新による性愛と生殖の分離可能性は、直ちに性愛と生殖の分離を事実としてもたらす(p. 14)。つまり、本小説において、生殖は性愛のほかになんら必然的な目的を持たない。「私」たちの世界において生殖と性愛は完全に切り離されているのだ。そうした社会にあっては、旧来の性愛と結びついた生殖の代わりに、「殺人」と結びついた「殺人出産システム」が要請される。愛の代わりに殺意こそが未来の生命をリレーする。あるいは、誰かを愛する代わりに、誰かをに憎しむことが未来の生命をリレーする。そのように、「私」の生きる世界では公的な殺人(=戦争)だけでなく私的な殺人もまた「こわーい」ことではなく「正しい」こととして肯定され、正当化され、そして聖化されている。

 

恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。/日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人口子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。/死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師はいった。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。(p. 15)

 

 生殖技術によって、生殖は、単性生殖として「セクシュアリティの装置」とフーコーが呼ぶ二者の性愛関係から切り離される。のみならず生殖は、「婚姻の装置」とフーコーが呼ぶ「親族関係の固定と展開の、名と財産の継承システム」からも切り離される(フーコー『知の意志』p. 136)。「殺人出産システム」の導入により、生殖は、二つの装置から切り離される。同時に、生殖は、「殺人」という人類史において最も根本的な逸脱行為法と引き換えに「公務」として課される、ある種の公的事業として見なされる。つまり、生殖は、一方で殺人という逸脱行為の実現と引き換えに要求されるが、他方で、それは人口調整・労働者の創出といった、国家の自己保存にダイレクトにコミットし、合理的な仕方で管理される。

 

   端的に言うならば、本小説において、殺すことは産むことであり、産むことは殺すことである。誕生と死は不可分に結び合わされ、そして、それらは、一律全て国家から管理されている。

 

 そもそも、生殖はセックスの非対称性に依存する。しかし、本小説において、生殖機会はセックスとは無関係に均等化されている。そうした社会は、ともすると「人々が安全で満足できる性生活をおくり、 子供を産むかどうか、産むとすればいつ、何人まで産むかを決定する自由を持つべきである」というリプロダクティブ・ライツが万人に認められた、自由で解放的な社会のように見える(The World Health Organization; WHO)。

 

   しかし、そうした社会においてはむしろ、『知の意志』でフーコーが「第二の権力」と呼ぶ権力、すなわち「種としての身体、すなわち生物の力学に縦断され、生物学的プロセスの支えとなる身体」を対象として「生殖、生誕と可死性、健康水準、 長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件」に介入し、管理する「人口(population) の生政治学」が私的領域の細部にまで介入する(ibid, p. 176)。

   いいかえれば、旧来のセクシャリティに基づくリミットやジェンダーの非対称性からの解放は、むしろ国家による私的領域への介入を加速させている。

 

 そして、そのような国家による介入は、外から押し付けられたものではなく、「わたし」たちのうちで肯定され、正当化され、聖化される。たとえば、「私」が面倒を見ている親族のミサキは、衒いなく「私はね、もっと10代の『産み人』が増えたほうがいいって思うんだ。だってそれが社会のためだし」と言い(p. 59)、また代行殺人が横行していることについて、レジスタンスをする同僚の早紀子から問われた「私」は、「経緯はどうであれ、一人死んでも、10人生まれるんだから、別にシステムは崩壊しませんよ。産刑になる人が増えるだけ、子供はさらに増えるし。それも政府の計算のうちじゃないですか」と答える(p. 48)。

 

 さらに、そこに倫理や道徳はあるのかという早紀子の問いに対し、「私」は、「今の人類にとっては、命を絶やさず、増やしていくことこそが倫理なんじゃないですか」と返している(ibid.)。重要なのは、ここで「私」が、「政府の計算」を第二の返答で「今の人類」の話にすり替えているところである。いわば、「私」は、統治者の意思決定を人類の自然な過程としてすり替えているのだ。

 

    また、こうした状況は、たとえば「殺意」という私的な欲求を「世界に命を生み出す養分」として正当化する「私」の姉の態度や(p. 84)、「産み人」に殺された「死に人」を「皆のために犠牲になった素晴らしい人」として祝福するように言うミサキの先生の態度など、本小説の至るところに認めることができる(p. 51)。

 

 問題はそれだけではない。殺人出産システムに否定的な早紀子と肯定的な「私」の姉は、互いに「正しさ」という規範に執着する(p. 46, pp. 84-85)。どういうことだろう。

    こう考えることはできないか。このことは、本小説において、ひとびとがセックスによる生殖機会の偏向から解放され、またそれに伴う社会的紐帯から解放されると同時に、自らの行為を自己決定の結果と見なすことで、根拠の自明性が絶えず宙吊りに晒されていることを示している、と。いわば、自明な根拠の欠落のゆえに、ひとびとは国家の自己保存を人類史的過程として合理化し、それに服従することを欲望せざるを得ない状況に実のところ追い込まれている(社会的紐帯を失った孤独な群衆が全体主義を欲求するのと同じように)。

 

 あえてベタに読むならば、本小説は、我々のアイデンティティを外的に拘束する生物学的性差と、ジェンダーの非対称性からの解放が、逆説的に国家への自発的隷属を促すというアイロニカルな事態を、SF的想像力によって立ち上げ、我々の前に突きつけていると言える。

 

文献 

村田沙耶香『殺人出産』(講談社、2014)

フーコー『知への意志』(新潮社、1986)

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 

 

 

                                                                                             

 

炭酸水の星

 ある眠れない大嵐の夜のこと。

 その日は珍しく眠れなかった。目は冴えていたし、心なしか動悸もしていた。夜遅くまで作業していたからかもしれない。外の風は強く、悲鳴とも叫び声とも判別つかなかったような音だった。その日は嵐だった。その年一番の大嵐だった。窓のすぐ外の駐車場には誰もいない。「空」という有料駐車場の蛍光文字盤だけが光っている。「空」。駐車場の「空」という文字をみると、いつも「そら」と音読みしてしまう、と思う。

 

 「ちゃんと天気予報見なよー、嵐って数日前から言ってたんだからさー」、翌日の夕方に心配して電話をくれた地元の友達はそう言った。その子は煙草を吸うとき、いつも微かに手が震える。その仕草を、わたしはいつも見ないふりをする。あの嵐の翌日の夕方、その子は電話越しで煙草を吸っていたんだろうか。その子と会ったのは3年前のことだった。初めて会ったときのことを今でもよく覚えている。ときどきスキップするように軽く弾ませる足取りや、夕暮れを見上げるときの寂しげな眼差し。今では別々の場所に住んでいるその子とは、ふとしたときに電話をして、いつもどうでもいい話をする。

 

 もうすでに夜中の二時を過ぎていた。いつもならば眠っている。こんなに眠れないのは久しぶりだな、と思う。激しく震える窓のカーテン越しから、月の光が、光線のようにわたしの手元を微かに照らしているのが分かった。光線が漏れてくるほうへとゆっくりと顔を向ける。すると、凹凸のある窓ガラスから漏れてくる月の光が砂浜に落ちている貝殻のようにキラキラと光っている。そうした月の光と窓ガラスの激しい振動とは、一見するといかにもちぐはぐな組み合わせのように思えた。

 窓ガラスの振動音のほかに、何も音はしない。カーテンの裾はいつものように床まで垂れている。買い換える必要があったのに、まだ買い換えていなかった。買い換えるだけの時間もない、そう思っていた。実際に時間がないかどうかは分からなかった。ただそういう気がしていた。そういう気がしたまま毎日が過ぎていた。そのカーテンは、今も同じように床まで垂れたままでいる。

 

 「炭酸水の星」。その大嵐の夜、わたしはとあるSNSのアプリに登録して、そんな名前のアカウントを作った。

 しゅわしゅわとして楽しそうな星じゃないか、地表を歩いてるだけ足がぴりぴりと痺れてきそうだ、何を混ぜても炭酸水割りになってしまうのだろう、炭酸水の鯖味噌やキムチ鍋、ウーロン茶の炭酸割り、いや、それは別におかしくないか、白米も炭酸水で炊けば味が違うのだろうか、カレーも食べればきっと口がピリピリするに違いない、でも、そんなカレーって美味しいのかな?わからない。

 

 あのとき、わたしは日中に炭酸水を飲んだのだろうか、細かいことはもうあまり覚えていない。風の音は先ほどよりもさらに強くなっていた。風ってこんなに激しくなるものなんだ、と驚いた気がする。こんなにも強い風の音を窓のそばで聞いたのは初めてだったし、こんなにも激しく窓ガラスが音を立てて震えるのを見るのも初めてだった。住んでいた家はとても古かった。安いけど耐震構造とかしっかりしてないですよ、それでもいいならいいですけど、部屋を借りたときに不動産屋はそう言った。その人は、奥歯の一本が金歯だった。まるでマフィアみたい、と思ったせいか、その話の内容は詳しく覚えられない。分かりました、と言って、サインをする。サインする紙が置かれた机には、その街の地図が貼ってある。坂道の多い街。その地図に載っている多くの場所のことをわたしはまだ知らない。それは、今も変わっていない。

 

 その大嵐の夜、ほんの数時間のあいだだけ「炭酸水の星」だったわたしは、目につくアカウントの人生を片っ端から全て完全に肯定し、悩みを聞いては励ました。そして、次の日にはその人たちのことを全て綺麗さっぱり忘れた。なぜそんなことをしようと思ったのかはもう覚えていない。たぶん眠りたかったからだとおもう。眠るためにはなにか気晴らしが必要だった。翌日の朝にもうそのアカウントは消し、アプリは携帯から削除した。それから一度もそのSNSには登録していない。行きずりで人を励ますというのは変な話だが、とにかく目に付いた人の悩みを全て聞いて、励ましていた。

 そんななか、ただ一人だけ今でも覚えている人がいる。


「窓の音がすごい」「家壊れそう、こわい」「東京住みやばそう」「寂しい」「うわー、すげー」「あの人が嫌い」「生きるのしんどい」「いい人いないかなあ」「親心配しすぎ、ウザいんだけど」「東京の人、大丈夫だといいけど」「やっぱフラれたのかなー」「自分のことが好きになれない」「冷蔵庫なんもないけど買ってくるの無理っぽいかも」「意外と東京に住んでる人多いんだね」「会社いやだ」「ひまなひと話さない?」「本当に周りの人が嫌い」「なんかつまんないなあ」「ねむれない」「人生辛い」「起きてる人いるー?」「好きな人から嫌われた気がする…」


 確かこんなふうなメッセージが縦に無造作に並んでいた。スクロールすると、また同じようなメッセージが延々と流れてくる。上から一つ一つ、適当に返信をした。「大丈夫?窓際に近づかないようにするんだ」「いえがこわれないといいね!」「東京はすごいよー」「どうして寂しいの?」「すごいよねー」「どうして嫌いなのかな。なんか嫌なことあった」。どうせ知らない人たちだった。わたしも、彼らからすれば知らない人たちだった。互いに知らないもの同士が眠る前の暇つぶしをしているだけ、そう思いながら、片端から返信する。


 とあるメッセージに返信した。確か、そのメッセージには、「寂しい。誰でもいいから、こんな夜は抱きしめてほしい」というふうに書かれていた。


「誰でもいいなんて、ダメだよ。あなたを大切にする人を見つけなくっちゃ」

「大切にするっていうのと、寂しいときに一緒に居てくれるひとは違うの?」

「そのひとが、もし寂しいときだけ一緒に居てくれる都合のいい人なら、あなたのことだけを大切にしてくれる人じゃないかもしれない。そのときは満たされるかもしれない。けど、それじゃあいつまでたっても幸せになれないかもよ」

「でも、寂しい。夜になると一人ぼっちになった気がして」


「あなたにはひとから大切にされるだけの価値があるよ。大丈夫、あなたのことだけを思ってくれる、優しいひとがきっと現れる」

「本当?」

「もちろん、本当だよ」


 ウソだった。そんなこと分かるわけがない。全く知らない人間に、いったい何が分かるというのか。無責任で勝手な言葉だった。でも、そのときはそんなことは全く考えなかった。ただ眠りたかったし、眠るためには気晴らしが必要だった。


「そうかなあ」

「もちろんそうさ」

「そっか、寂しいからといって、やっぱり誰でもってわけじゃダメなのか」

「うん」

「むずかしい」

「そうだね」


 「でもね」。話を聞く限り、彼女は東京で働いているOLのようだった。毎朝満員電車に揺られて通勤し、電車の遅延にため息をついたり、仕事帰りのスーパーで夜ご飯を買ったり、化粧に疲れたり、上司に叱られたり、月に一回は必ず大学時代の友達と遊んだり、土日と有給を組み合わせてに旅行の計画を立てようと決心したり、地元に帰りたいと思ったり帰りたくない思ったりしながら、そんなふうに毎日を過ごしている人なのかもしれない。

 彼女は、すこしまえに会社の同僚から食事に誘われたという。「好みのタイプというわけではないんだけど、仕事が丁寧で優しいひとなんだ」。


「それはいい!じゃあ、今度その人と食事に行ってみるといいよ!大切にしてくれる人だといいね」わたしは言った。


 風で震える窓ガラスはガタガタと音を立てたが、外には誰一人として人がおらず、カーテンを引いて外の景色をじっと眺めてみると、なんだか月の地表を宇宙船の中から見ているような気分だった。雨は降っていなかった。部屋は静まり返っていた。なんだか別の惑星同士で交信しているみたい、と思う。ものすごく遠くの人と連絡をしているみたいだったし、でも、目の前の椅子に座っている人に小声で話しかけているようでもあった。不思議な気持ちだった。携帯の液晶画面は、画面を暗くしていても暗闇の中では長方形の形をしていて、明るかった。まだひび割れも少なかった。


「うん。本当はその人と食事するのは迷ってたんだけど、やっぱり行くことにする」彼女は言った。

「それはよかった。素敵な話をありがとう」わたしは言った。

「いいえ、こちらこそありがとう、炭酸水の星さん」彼女は言った。

気が付けばわたしは眠っていた。


 最初にも書いたように、次の日の朝、わたしはそのアプリを退会し、携帯からそのアプリを削除した。あれだけ適当なことを言って、知りもしない相手のことを一方的に褒めちぎったことに、多少の罪悪感を感じないわけではなかったが、すぐに特に気にならなくなった。

 

 翌日の朝は嘘みたいに空が晴れていた。すっかり夏だった。窓から見える有料駐車場には、いつものように幾つかの車がまだらに停まっている。外へ出て駅までの道のりを歩くと、Tシャツの下で体が微かに汗ばむのを感じた。駅周辺の空気一帯が、夏の訪れに歓喜して震えているようだった。例年よりもずっと暑い夏でしたね、いつの日かニュースキャスターはそう言った。たしかに暑かった。つい数時間前にあんなに親密な夜があったことが、なんだか全て嘘だったみたい、とわたしは歩きながら思う。途中で公園に向かう子供たちとすれ違う。すれ違いざまに、夏の匂いがした。みずみずしい柑橘系の果物のような、鼻腔の奥深くにまで届く甘ずっぱい匂いだった。

 

 そのまま月日が経った。わたしは、嵐の夜の出来事をしばらく忘れていた。

 

 ガラス窓があれほど震えたのは、あのときが最初で最後だった。いまは、夜になると遠くから聞こえてくる車の走行音がさざ波のように微かに抑揚をつけて聞こえるだけだった。車の通りがうるさくないから、この部屋に住んでいる。たまに咳き込む人の声が聞こえる。風邪ひいたのかな、と思いながら眠りに就く。そんな眠りに就く間際、ごくたまに当時のことを思い出す。そして思い出すときは、いつも彼女のことを思い出す。

 

 あれから彼女は会社の同僚と食事に行けただろうか。彼女の隣には、彼女のことを大切にしてくれる人がいるだろうか。わからない。名前も住所も連絡先も何一つ知らないのだから、知りようがない。もし二人が付き合っているなら、彼女は、その同僚の彼に「炭酸水の星」の話をしたのだろうか。したのかもしれないし、していないのかもしれない。本当は、彼女のした話は全て嘘だったのかもしれない。わたしと同じように眠れない別の誰かが、暇つぶしで、そんなふうに嘘の物語をでっち上げていただけかもしれない。実は、眠れない中年の男性が東京で暮らすOLを装っていただけかもしれない。

 

 たとえ全て嘘で、そんな東京のOLは存在せず、彼女が架空の存在だったとしても、あのとき、メッセージを送り合っていた彼女の素直さがわたしには眩しかった。ここのところずっと忘れていた眩しさだった。喉元にずっと詰まっていた黒くて固い何かを、隅から隅まで照らして浄化してしまうほどの眩しさだった。この世界の夜には、まだあんなふうに見知らぬ他人同士でなされる親密な打ち明け話がある、そう思うと、わたしは安心する。安心するとつい眠くなってしまう。だから、わたしは、眠れないときはふいにそのことを思い出してしまう。


あのときはありがとう、なんか適当なこと言ってごめんね、その後どう?あなたのことだけを大切にしてくれるひと見つかった?


 もし会えるならそんなことを喋りかけてみたいけど、その機会はない。必然的かつ永久に、というより、単に事実として、ない。それに、実際にそんな機会があったとしても、わたしたちはその機会があることにすらたぶん気付かないかもしれない。じつは毎日の通勤電車のなかで隣り合っているのしれないし、よく利用する喫茶店で日常的に隣り合っているのかもしれない。一度でいいから会ってみたいと思いながら、ほんとうは毎日嫌というほど顔を合わせているのかもしれない。それは誰にもわからない。

 それに、今そう思っているということ自体も、来年くらいにはきっと忘れているだろう。し、忘れていても構わない。

 

    そんな平坦な戦場ですらない日々の、ありふれた私たちのありふれた話。

 

f:id:hiropon110:20190608092653j:image

「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(初期のメモ)

以下の資料は、「「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」について」を書く際に、出発点として書いたものです。かなり変更を加えたのでこちらも載せておきます。

 

f:id:hiropon110:20190422135923p:imagef:id:hiropon110:20190422135928p:imagef:id:hiropon110:20190422135938p:imagef:id:hiropon110:20190422135944p:imagef:id:hiropon110:20190422135950p:imagef:id:hiropon110:20190422135958p:imagef:id:hiropon110:20190422140009p:imagef:id:hiropon110:20190422140014p:image

 

 

「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(3)

 本エッセイは以下のエッセイの続きである。

 

hiropon110.hatenablog.com

hiropon110.hatenablog.com

 

 

補論(3) 「メタ文学論」の弱点

  1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない

 本エッセイでは、テクストの存在身分を検討し、またそうしたテクストが現実世界とのどのように関係するのかについて、形式的に記述した

 

 しかし、このような形式的な議論は、同時にその議論で用いられている概念の外延を確定する手続きを、不当に看過していると見なすことができる。そして、そのような看過は、本エッセイ自体の仮説の妥当性を揺るがす重大な瑕疵であると解することが可能である。どういうことか。

 

 たとえば本エッセイでは、その議論の重要な構成要素である二つの概念、すなわち「テクスト」「事象」にたいする外延の確定が全くなされていない。のみならず、外延を確定のための明確な基準が全く示されていない。これは本仮説の持つ重大な瑕疵である。

 

 「テクスト」と一言で言っても、『リヴァイアサン』のような社会哲学に関する古典的なテクスト、『ハムレット』のような古典的な文学作品、『純粋理性批判』のような古典的な哲学書、あるいは『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』のような歴史学の古典的なテクストなどがある。これらはみな、自然言語で書かれた「テクスト」である。では、本エッセイにおける「テクスト」には、これらすべてのテクストが該当するのか、あるいは部分的にしか該当しないのか

 

 こうした外延確定のための明確な基準を設定するためには、本エッセイで用いられる「事象」という概念の外延を確定することを必要である。だがしかし、この確定はそう簡単にできるものでない。

 

 幾つか例を挙げよう。
 第一に、シェークスピアの『ハムレット』はデンマーク王子ハムレットの復讐譚という、虚構的な存在者に関する物語である。このような物語において、そもそもテクストは、現実世界の事象なり出来事を記述していない。その意味で、『ハムレット』は、本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、同時に『ハムレット』は、一般に中世とは異なる近代的な主体の在り方を造形していると解釈される場合がある。そのような解釈の当否はさておくとして、仮にこのような解釈が正しいならば、『ハムレット』は、近代以後におけるわたしたちの在り方の原型を記述していると考えられる*1

 

 このことを本エッセイの議論に照らし合わすならば、近代以後の社会に生きるわたしたちの態度は、そのようなシェイクスピアの記述によって「形成」されたと解することはできるだろう。ならば、本エッセイにおける「テクスト」には、『ハムレット』のような虚構的な物語も当然のことながら含まれる

 

 第二に、『純粋理性批判』が記述しているのは理論理性に関する考察である。このような理論理性は、我々の認識能力の一部ではあるものの、本エッセイにおける「事象」が「現実世界に関するもの」と規定されているため、こうした不可視な概念を考察する『純粋理性批判』は、当然ながら本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、『純粋理性批判』において考察される主体(subject)と対象(object)との関係は、近代以後の社会を生きるわれわれの基礎的な認識図式であるし、また「分析」「総合」「判断」「概念」などといった諸概念は、カントやその他の哲学者の膨大な論述によって意味が構築されている。

 

 そして、わたしたちは、このような諸概念をもちいて現実世界の事象を解釈し、判断し、経験する。そのため、『純粋理性批判』のように不可視な対象を記述するテクストも同様に、本エッセイが想定する「テクスト」に含まれる余地がある

 

 しかし、このように「事象」の外延を押し拡げることは恣意的な操作ではないか、より明確な基準を用いるべきではないか、とする批判はありうる。そのため、本エッセイにおける「テクスト」「事象」などの外延は明確に確定されず、そのような外延の曖昧さは本エッセイが提示する「メタ文学論」の弱点であると言ってよいだろう。

 

2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない

 

 「3. テクストの超越論的先行性の論証 2. 仮想的反論への再反論」でも述べたように、このような「メタ文学論」の仮説に立った場合、「なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか」を説明することができない。あるいは、仮に説明することができたとしても、「それは著者が稀に見る天才であったからだ」といった、著者の持っている特殊な資質に根拠が依存してしまう可能性がある

 

 そのような説明は、当然のことながら個々の著者の資質に依存する以上、理論としては脆弱な説明である。このような説明によってしか、著者による事象の形成を説明することができないならば、本エッセイにおける「メタ文学論」の仮説が妥当性を持つと見なすことは困難であるかもしれない


  補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。

 わたしたちは補論(3-1)で、不可視な概念が「事象」に含まれるかどうかについて検討した。だが、以下の説明手続きをとるなら、「自由」「善」「価値」「意味」といった概念、すなわち特定の可視的な事物に依存せず、また特定の感覚経験の様式にも依存しない不可視な概念を、本エッセイの「事象」と見なすことは、ある面では幾らか容易である

 

 なぜなら言葉の意味は生活形式のうちで理解され、のみならず、その言葉の意味の真の理解は、その言葉を使用した「起源」に立ち返ることを要請するが、このような言語理解の形式は、不可視な概念を例に取った場合に最もよく理解することができるからである。どういうことか。

 

(ただし、その場合「テクスト」が記述しているのは「不可視な対象」であるため、出来事のニュアンスを含む「事象」とは異なる対象の命名が必要とされるが)

 

 ヴィトゲンシュタインによれば、私たちは言葉の意味は生活形式のうちで理解される。いいかえれば、言葉の意味とは、現実世界における言語話者間の相互コミュニケーションから独立して存在するものではない。そのため、そうした言葉の意味は、もちろん相互的なコミュニケーションや書かれたテクストの外には存在しない(このことは「2. 二つの認識能力の批判 1. 感覚的経験批判」でも確認したとおりである)。

 

 くわえて、そのような言葉の意味は、辞書のような書物によっても十全に理解されるものではない。というのも、そうした言葉の意味は、その言葉の外に実体として存在するのではなく、その言葉の使用経験の歴史に依存しているからである。周知のように、辞書は時が経つにつれて改定され、あらたな言葉の用法や意味の変更などが常に更新されなければならない。言葉の意味は常に変化し続けていくからである。

 

 とはいえ、言葉の意味理解が生活形式に依存するということは、言葉の意味が各言語使用者のグループに応じて恣意的に決められるものでしかない、ということを意味しない。なぜなら、もしその言葉の意味の理解が本当に正しい理解であるかどうかを確認するためには、複数の言語使用者のグループにおける言葉の使用法を確認する必要があるからである。

 

 また、そのような言語使用をする共同体は、現在だけでなく過去にも存在する。そして、現代における言葉の使用は、そうした過去における言語共同体の言語の使用に依っている。とするなら、ある言語の意味を厳密に理解するということは、まずその言葉が最も最初に使用された生活形式を理解する必要がある。ただし、そのような最初期の言語共同体は、当然のことながらもはや現存しない。ならば、そのような最初期の言語使用者たちの生活形式を理解するためには、当時の生活形式に即した言語使用によって書かれたテクストを集中的に読むことが必要となる。そして、そのような過去における言葉の使用こそ、言葉の意味がこの世界に誕生した「起源」に他ならない

 

 ところで、実際に感覚し経験することができる可視的な事物にくらべて、「自由」「善」「価値」「意味」などの不可視な概念は、そうした言葉一般の持つ歴史的な性格が最もダイレクトに反映される。いいかえれば、そのような不可視な概念は、言葉の使用によってのみ端的に「形成」される。その際、言葉の使用は不可視な概念の可能性の条件であるとともに、そのような概念をつうじた世界経験の可能性の条件である。このように考えるならば、不可視な概念について考察するテクストも同様に、不可視な概念に対して形式的に先行していると考えることは、それほどおかしなことではないだろう


補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

 もし本エッセイの「メタ文学論」に理論的な利点があるとするなら、それは、わたしたちが普段行なっている認識活動をすべて無矛盾なものとして連絡することができる点である。

 

 というのも、第一にこの議論自体は主に日常的な推論を通じて為されており、第二に、その検証は主に認知言語学や心理学などの知見から行うことができ(るかもしれない)、そして第三に、その結果として擁護されるのは、現実世界におけるある種の事象は日常的推論や経験的科学によっては理解できず、ただテクストの読解によって可能となるという、現実世界を理解する際のテクストの絶対的な優位性である

 

 つまり、「メタ文学論」において、我々の認識経験における三つ様式(日常的な推論、経験的観察、文献読解)とは互いに連絡され、棲み分けられ、そして共生し合う

 

   また、このような理論は、主に以下のような二つの理論を回避することができる。

    その二つの理論とは、第一に、一つの認識経験のみに絶対的な優位性を認め、他の認識経験を当の認識経験に「還元」することを求める理論、第二に、当の認識経験を他の認識経験から完全に切り離し、わたしたちが経験する事象は説明不可能な私秘的な根拠によってのみ理解されるとする理論、この二つである。

   これらの理論に比べ、本エッセイにおいて提示した「メタ文学論」は、認識経験を一個の様式にのみ押しつぶことなく、複数の認識経験との共生可能性を提示するという総合性の観点において、大きなメリットを持つ。

 

まとめ

 本エッセイは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護するために、テクストの存在身分やテクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述する「メタ文学論」を提起する試みである。

 

 そして、そのような「メタ文学論」のありうる立場として、本エッセイは「文学の基礎づけ仮説」を提起する。それは、「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」によってテクストの存在身分やテクストと現実世界との関係を基礎付けることを最重要の課題とする。いいかえれば、本エッセイの目的は、そうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」の真偽の検討することである。そして、それは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。本エッセイの主要な論述は、こうした「テクストの超越論的先行性」を真であると論証するために為された。

 

また、本エッセイの構成は以下のようなものである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

 

 ところで、このような「メタ文学論」は、個々のテクストを超えてテクスト一般の存在身分を検討するという意味で、こう言ってよければ、ある種の形而上学の試みの一つであると考えられる。

 

    だが、同時に本エッセイで考察した「メタ文学論」は、ものの可能性の条件でありながら、同時にそのものの経験の可能性の条件であるものとして「テクスト」を規定している。そのため、そのような試みは、私たちの認識が及びうる範囲というものが予め設定された上で「テクスト」という対象を規定していることになる。とするなら、それはある種の超越論的哲学の一派生形であるという意味において、認識論の試みというふうに言うことができるのではないか。このことについては、筆者の無知のゆえに、現段階では判断を留保したい。

 

 また主に「補論(1),(2),(3)」で詳細に述べたように、本エッセイは、多くの面でいまだ不十分な理論的仮説であり、数え切れない「穴」を持っている

 

 しかしながら、そのような「穴」が多く認められてもなお、この仮説の持つ意義は否定できないのではないか。というのも、仮にこのような仮説を立つならば、わたしたちは書かれたテクストや言葉にたいして相当に強力な固有性を認めることができるからだ。この仮説によれば、現実世界があってテクストや言葉がそれを記述するのではなく、テクストや言葉のほうが現実世界それ自体を形成していると見なされる。とするなら、数千年前の古文書を読み解くことは、まさしくこの世界の存立構造を探求することにほかならず、また、現代の若手の作家が書いた文学作品を仔細に読み解くことは、来たるべき現実世界の在り方を探求することにほかならない

   

 このような「メタ文学論」は、テクストの存在身分や現実世界との関係を可能な限り拡張する可能性を秘めた理論と言えるのではないか。もしこのような可能性と認めることができるならば、「メタ文学論」の試みは、それなりの意義を持っていると言えるだろう。

 

 

f:id:hiropon110:20190422133225j:plain

*1:「『ハムレット』は哲学である|NHKテキストビュー」:textview.jp/post/culture/18226

「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(2)

 本エッセイは、以下のエッセイの続きである。

 なお、本エッセイでは、本エッセイにおいて主要な論述を行なったのち、「まとめ」の前にいくつかの「補論」を付す。

 

hiropon110.hatenablog.com

 

 

 

 

3. 「テクストの超越論的先行性」の論証

  1. 仮想的反論の提示

 では、テクストの超越論的先行性それ自体はいかにして根拠付けられるのか。

 

 そもそもテクストの超越論的先行性とは、「当該事象のに対するテクストの先行性」のことを指していた。このような先行性は、テクストが当該事象を「形成する(form)」ことに由来し、ここまでの議論は、その前提が真であると見なした上で為されている。では、テクストが当該事情を「形成」しているという前提の正しさはどのように根拠づけられるか。

 この問題に正面から答える前に、別の仮想的な反論に応答することを通じて、この前提の妥当性を幾らか根拠づけたい。その仮想的な反論とは以下のようなものである。

 

 ①古典的なテクストの著者は、何故それ以前には存在しないとされる事象を記述できたのか。②このような論拠は、古典テクストの著者に事象を「無から創造」する権能を認めているのではないか。

 
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 このような批判はありうる。まず、①について応答することはかなり困難である。たしかに、なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか、それは現段階ではおよそ説明することができない。

 だがしかし、②は「文学の基礎づけ仮説」が求める前提とは完全に一致していないため、真ではない反論することができる。

 

    なぜなら、「文学の基礎づけ仮説」において、テクストの著者は当該事象を「創造する(create)」のではなく「形成する(form)」だけだからである。「形成する(form)」とは、言いかえれば「形式(form)」の側面からしか著者が当該事象にコミットしていないことを意味する。もっというと、この前提において、古典テクストの著者は、事象を生み出してたりのではなく、事象を理解する枠組みを提示するにすぎない。

 

    とするなら、そのような当該事象を理解する枠組みとは、当該事象の「形式」のことに他ならない。では、この「形式」とはいったい何か。

 形而上学における理論的な枠組みの一つに、「質料形相論」と呼ばれるものがある。たとえば一個の彫像は、土や石灰といった素材と、彫像という形態によって彫像足らしめられている。もし仮に、彫像が土ではなく木で作られたとしても彫像は変わらず彫像のままだが、彫像の形態の代わりに家の形態が与えられれば、その彫像はもはや彫像ではなくなるだろう。

 このような意味で、当該事象を構成する可視的要素は、著者が当該事象として記述する以前に存在していたと思われるが、しかし、その当該事象の本質は、あくまでもその当該事象の「形式」である枠組みそれ自体のほうにあるとかんがえられる。

 

 とはいえ、このような反論は仮想反論の②にしか答えておらず、①を反論出来ていないという点で、弱い反論である。こうした仮想的反論に完全に応えられないところが「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」の弱点だろう。

 だが仮想的反論に対する再反論によって、すくなくともテクストの超越論的的先行性が「荒唐無稽なもの」ではないと見なすことは可能となった。なぜなら、繰り返すように、文学を基礎づける「テクストの超越論的先行性」とは、当該事象を文字通り生み出すのではなく、それを形成し、そして可能ならしめるような条件としてテクストが当該事象に対して先行していることを意味しているからである。

 

 それゆえ「1. 問題提起と仮説の提示」でも述べたように、テクストと当該事象との時間的な前後関係は同時的か、あるいはそもそも規定することが困難であるが、しかし、そのような時間的な前後関係に関する詳細な規定は「テクストの超越論的先行性」においてそもそも問題とはならない。そのため、テクストが当該事象を「形成」し、そのようなテクストの以前に当該事象が存在していなかったとする議論は、それほど疑わしいとは考えられないだろう。よって仮想的反論の②はである。

 

 そして、もし仮想的反論②が偽であるなら、当該事象に対する「テクストの超越論的先行性」を偽である判断することは認識の原理上、不可能であると見なされなければならない。というのも、ある事象がそれを記述し、名指したテクストによって条件づけられているということは、そのようなテクスト、あるいは言葉によって当の事象を認識している以上、必然的なことだからである。いいかえれば、当該事象を他から区別するという認識自体がテクスト、あるいは言葉による規定に依存する以上、「テクストの超越論的先行性」は、十分に常識的直観に即した理論的仮定であるとかんがえられる。というのも、そのようなテクスト、あるいは言葉抜きに、我々は何を認識しているかどうかさえも定かではないからだ。つまり、我々の認識がテクスト、あるいは言葉の超越論的先行性に依存している以上、先の前提が偽であると判断することは事実上不可能である

 

 よって、「テクストの超越論的先行性」に関する前提は、真か偽のどちらかであるが、たとえ偽であったとしても、わたしたちはそのことを原理的に知ることができないため、先の前提を偽と判断することはできない。したがって、先の前提を偽と判断することは誤りである。とすれば、残された判断は、その前提を真と見なす判断だけである。したがって、先の前提は真である


補論(1)  「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点

 本エッセイで論じた「文学の基礎づけ仮説」は、かりにその仮説が要請する前提を真であると見なさなくとも、つまり基礎的な原理(テクストの超越論的先行性)を正当化せずとも、その妥当性を認めることは可能である。その場合、その妥当性は、本仮説が現実におけるテクストと事象との関係を整合的に説明し得ると見なせる場合にのみ限定される。つまり、現実世界とテクストとの関係を説明するのにこの仮説が有用である場合、その仮説の妥当性は幾らかなりとも保証される。

 

 その際、「文学の基礎づけ仮説」は、テクストと現実世界との関係を整合的に説明することができるという比較的ゆるい意味において「文学の整合仮説」と言い換えられるかもしれない(もちろん、本来の意味での「真理の整合説」は、それ以外に理論を構成する命題間の整合性をも要件とするが)。

 

 たとえば、本エッセイで論じた「メタ文学論」は、なぜ古典が「普遍性」を持ちうるのかについて、有力な理論的枠組みである見なすことができる。以下、その根拠を明示する。

 

 素朴に考えれば、特定の事象を説明するための理論は、そうした特定の事象が消失した時点でその有用性が失われると考えられる。特定の事象は必ず特定の時空のうちで起こるため、それを説明する理論の有用性は必然的に事象の消失と対応する。また同様の理由により、特定の事象を説明する理論の有用性は、そのような理論が説明される特定の事象とは異なる別の文化社会的状況においては、有用性を持たない。

 

 だが現実はそうではなく、いわゆる「古典」と呼ばれるテクストは、いつ・どこの国や地域であれ繰り返し読まれる。とするなら、テクストは、かりにそれがある特定の諸事象を説明づけるものであったとしても、それは説明づけた個別的な事象を越えて、以後それ自体として自立し、わたしたちの関連事象の理解にたいして甚大な影響を及ぼす

 

 そして、「文学の整合仮説」は、そのような経験的な事実を説明する理論的枠組みとして優れている。なぜなら「文学の整合仮説」は、個々のテクストの内容に踏み込まず、あくまでテクスト一般の形式的な側面からのみテクストの「普遍性」を説明するからである。
いいかえれば、「文学の基礎づけ仮説」は、いかなる個別的な事象の生滅とも、あるいはテクストの個別的な内容とも関係なく、古典が読み継がれる理由を説明することができる

 

 対して、個々のテクストの内容からそのテクストが「普遍性」をもつことの意味を探ろうとする議論は、そのテクストの個別性に引きずられ、なぜ当の事象が過ぎ去ってもなお、そうした当該事象を記述したテクストが読み継がれるのかに関して、絶対的に確実な根拠を提示することができないだろう

 

 よって、本エッセイが論じた「メタ文学論」は、「文学の基礎づけ仮説」としてではなく、「文学の整合仮説」として評価できる余地がある。

 

(とはいえ、このような「基礎づけ主義」と「整合説」に関する議論は表層的なものにとどまっており、この論点を検討するためには、より厳密な「知識の哲学(philosophy of knowledge)」の理解が必要とされる)


補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ

 そのほかに、「文学の基礎づけ仮説」は自然化が可能なものであるとかんがえる立場を想定することもできる。その際、「文学の基礎づけ仮説」には、本エッセイにおいて問われることのなかった別の隠れた前提があると見なすことが必要だろう。その隠れた前提とは、「当該事象はそれを記述した自然言語の固有性に立脚しており、よって人工言語によって再記述は出来ないし、他の自然言語によっても完全に再記述できない」という前提である。

 

 このような前提がもし真であるか偽であるかを調べるためには、われわれは「テクストの超越論的先行性」の妥当性について検討する際、そのようなテクストを構成している自然言語の構造を調べること、あるいは、言語を用いる際の我々の認知のあり方を調べることが重要な課題となるだろう。そのような研究は文学研究者のみならず、認知言語学者や心理学者といった経験科学者によっても為される必要があるだろう。

 よって、 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地を持っていると言わなければならない。

 

hiropon110.hatenablog.com

(↑つづきはこちら)

 

www.dropbox.com

 

f:id:hiropon110:20190421211308j:plain

「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(1)

はじめに

 本エッセイでは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護する仮説を提起したい。

 

    そしてその仮説全体の妥当性は、「テクストは当該事象を「形成する(form)」ものであり、またその意味で、テクストはそれ自体が一個の独立した対象でありながら、同時に、それは当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもある」という命題の真偽によって決まる。そして、本エッセイでは、テクストに固有なこのような性質を「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。

 

 したがって、本エッセイの目的は、このような「テクストは当該事象にたいして超越論的先行性をもつ」という命題の真偽を検討することである。 

 

 なお、こうした仮説は、他の言語に完全に置換することが不可能な、特定の自然言語によって記述されたテクストの存在身分を検討し、また、テクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述することを要請する。ゆえに、それは、規範的で実質的な内容について論じる「規範倫理学」とは異なり、そうした内容を可能としている「そもそもの次元」を問う倫理学が「メタ倫理学」と呼ばれるのと同様に、「メタ文学論」と呼びうるかもしれない。

 

 あるいはそれは、テクストの存在身分や現実世界との関係を、これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠によって基礎付けることから、「文学の基礎づけ仮説」と呼びうるかもしれない。そして、本エッセイにおけるそうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」とは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。

 

(本エッセイで呼称される「文学」「テクスト」などの名称は、ある種の物語形式で書かれた文章だけにとどまらず、広く自然言語で書かれたテクスト全般のことを指す)

 

 

また、本エッセイ(1)-(3)全体の目次は以下の通りである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

  

www.dropbox.com

 

1.問題提起と仮説の提示


 わたしたちは往々にして、現実の事象を理解する方法のひとつとして、歴史上の古典的なテクストの読解を有意味なものとみなす。しかし、なぜ目の前に現に生じている特定の事象を理解するために、古典的なテクストを読む必要があるのか。古典的なテクストと当該事象は無関係ではないのか。


 こう考えることはできないだろうか。ときに、古典的なテクストは、特定の事象を説明づけていると見なされるが、しかし実はそうではなく、そうしたテクスト自体が当該事象それ自体を「形成(form)」しているのである、と。その意味において、テクストは当該事象の可能性の条件である

 

 しかし、このような仮定は、一見すると以下のような矛盾をもたらすだろう。

 もしテクスト自体が当該事象それ自体を「形成」するならば、そのようなテクスト以前に、当該事象はそもそも存在すらしていない。ならば、まずはじめに当該事象が存在し、つぎに当該事象を説明するテクストが存在するというのは、事後的にわたしたちが構成した誤った認識にほかならない。先の仮説に基づくなら、事象がテクストに先立つのではなく、テクストが事象に先立つからである。しかし、そうとも言い切れない。

 

 というのも、当該事象が存在する以前に当該事象に関する記述が存在するという仮定は、明らかに日常的な直観に反するからである。ならば、この「文学の基礎づけ仮説」において、テクストと当該事象の成立は同時的である、あるいは時間的な前後関係は一意に規定しがたいものである、とさしあたり仮定しよう。


 だがしかし、そのような前提の変更によって、当該事象に対して先立つわけではないにせよ、当該事象の本質が、テクストのみに特権的に依存するとする仮定は退けられない。いいかえれば、テクストは、生成の順序において当該事象から先立つとは言えないものの、当該事象を可能たらしめ、それが「何であるか」を規定する条件であるという点については依然として変わらない(このことについては、「3. テクストの超越論的先行性の論証」にて詳述)。

 

 よって、本エッセイが提起する「文学の基礎づけ理論」において、「テクスト」とはさしあたり以下のように定義される。

 すなわち、それは「当該事象を「形成(form)」し、一個の独立した対象でありながら、同時に当該事象の可能性の条件であるとともに、当該事象の経験の条件でもあるもののこと」である。以下、本エッセイでは、こうした当該事象に対するテクストの先行性を、かりに「テクストの超越論的先行性」と呼ぶ。「超越論的」は、ここではおおざっぱに「ものそれ自体の可能性と、そのものの経験の可能性の条件を規定するものに付される形容詞」を意味し、「先行性」をここではおおざっぱに「なんらかの順序において先立っていること」として規定する。すると、「超越論的先行性」とは「当該事象を可能にし、そして、当該事象の経験を可能にする条件として、当該事象に対して先立っている」といった程度の意味として解すことができる。

 
 もしかりにこうした仮説に基づくならば、わたしたちは、特定の事象を理解しようとするとき、その当該事象に対するテクストの超越論的先行性のゆえに、どうしても当該テクストを読まざるを得ない、と考えることができる。そして、そのテクストを読むこと抜きに当該事象に関して理解することは原理的に不可能である、とさえ言える。どういうことだろう?

 

 これは決して荒唐無稽な話ではないし、ある意味では文学研究の普遍性や固有性を擁護するのになかなか手強い論拠ではないか、とおもう。以下、ごく手短にその理由を示す。

 

2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判

1.感覚的経験批判

 第一に、先ほども述べたように、この立場からすれば世界のある種の事象は、それを語る言葉の開発と共に「形成」されたものであると考えられる。仮にこのような前提が真であるならば、もし人が当該事象について知りたいとおもったとき、ひとはそれについて語った当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない

 

 この点についてすこし補足をしよう。
 通常、それ以外の選択肢としては一般に二つのことが考えられる。それは、感覚的経験と理性的推論である。つまり、「当該テクストを読むしか選択肢が事実上ない」とは、「いかなる感覚的経験や理性的推論も当該事象を知るための手段には決してなり得ない」ことを指している。

 

 まず感覚的経験から。もし先の前提が真ならば、当然のことながら、テクストの外でいかなる人がいつ、どこで、何を経験、観察、知覚しようとも、そうした感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である

 

 というのも、そうした当該事象が「何であるか」を規定するのはテクストのほうであり、そもそもテクストが名指した事象と当該事象それ自体は切り離すことができない。だからこそ、かりにそのような名称で呼称される事象それ自体がどのようであるかを経験的に理解したとしても、それは、当該事象が「何であるか」とは直接的には無関係である

 

 また、おそらく以下のようにも言うことができる。もしかりに、テクストが名指した当該事象と完全におなじ事象を、過去現在未来に及ぶすべての時間と空間のなかから見つけ出すことに成功したとする。それは現に著者が記述した事象と全く同じ事象であると言ってよい。では、それについてのセンス・データは、テクストが記述した当該事象の本質を理解するために直接的に関係があるか

 

 否、そうではない。繰り返すように、かりにそうした完全に同一の事象を見つけ得たとしても、それが同じであるかどうかの基準それ自体は当該事象に関するテクストそれ自体によって規定されている。すなわち、わたしたちは、当該テクストが記述した当該事象を経験を通じて理解し、類似した事象とそれを比較することができるが、その理解それ自体は当該テクストに依存しているのである。したがって、感覚的経験から得られるセンス・データと当該事象とは直接的には無関係である。かりにそうした当該事象と完全に同一の事象を経験したとしても、それは最早当該事象とは別の「何か」だろう

 

2.理性的推論批判

 では、経験に拠らない理性的な推論ならばどうか。わたしたちは通常、経験によらずともある前提が真ならば、その前提から導かれる結論は疑いようもなく真であるとかんがえる。たとえば、前提①「もし犯人であるならば、その時間に殺人現場にいなければならない」と前提②「Aはその時間に殺人現場にいなかった」からは「ゆえに、Aは犯人ではない」という結論を必然的なものとして導くことができる。このような推論は、疑いようもなく妥当な論証形式に則っているからだ。このような推論を用いて、当該事象に関する知識を獲得することは不可能なのか。

 

 不可能ではないにせよ、やはり経験に基づくセンス・データの場合と同様に、直接的には無関係であると考えなければならない。なぜか。

 

 その理由はおもに二つ考えられる。
 第一に、センス・データと当該事象とが直接には無関係であるのと同様に、そのような推論によって得られる知識は、仮にその前提を立てるための仮説が経験に依存しているならば、直接には無関係であると言わなければならない。経験に依存する場合、テクストによる当該事象の規定は必ず個別具体的な当該事象を先立っているからである(このような帰納と演繹を組み合わせた推論形式は、おそらく一般に仮説的演繹法( hypothetico-deductive method)と呼ばれる)。


 ならば第二に、その前提は、経験に依存しないものではありえないのか。おそらくありえないだろう。というのも、当該事象とは、あくまでも現実世界に対して認められる事象のことを指しており、完全に経験から先立つものではないからだ。そうである以上、もし当該事象への理解が理性的推論に基づくならば、その推論を形成する前提はただ経験からのみ得られる。だが繰り返すように、感覚的経験に基づくセンス・データが当該事象に関するデータであるか否かは、当該事象を記述した当該テクストに特権的に依存する。よって理性的推論も同様に、当該事象を知るための選択肢には事実上なりえない。
 
 以上の諸点から、古典的テクストは、当該事象を語る言葉の「用例集」「辞書」である共に、あたかも当該事象を創造した「神の言」(ヨハネ福音書)であるかのようであり、また、そのような当該事象を「形成」する過程自体を記述した「歴史書」でもあるかのようだ

 

hiropon110.hatenablog.com

hiropon110.hatenablog.com

f:id:hiropon110:20190421001445j:plain

 

「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示──大岩雄典「スローアクター」評

 本記事は、2019年の2月9日から3月2日まで駒込倉庫にて開催された、大岩雄典「スローアクター」の展評である。大岩のプロフィールと本展の概要については、以下の特設サイトの紹介を参照。

 

大岩は2017年の第4回CAF賞海外渡航費授与賞授賞をはじめ、日本のコンテンポラリーアートシーンで注目を集めている作家です。大岩はこれまで、映像、レディメイド、ペイント、テキストなど様々な媒体を用いたインスタレーションを発表してきました。

 

映像やインスタレーションの形式に、物語論言語学、ゲーム研究への見識、また時間にかんする固有の哲学的視点を導入してつくられる大岩の作品は、美術としての同時代性だけでなく、哲学思想や文学にも通ずる射程をもち、同世代の作家のなかで特異な位置にあります。

 

本展は、大岩のキャリアのなかでは最大の規模をもち、二階建の建物全体を活用して構成されています。「水」と「落下」というキーワードで、個人の身体と美術史の記憶とを結びつけながら、〈時間〉と〈物語〉を人が感じ取とる機微をめぐって、作品は展開されます。

 

大岩の作品展示に加え、建築家・奥泉理佐子が会場構成に介入することで、展覧会は成立させられます。奥泉も大岩と同様に多くの言葉を用いますが、奥泉のそれは、光や距離など非物質的な要素と、建築の物質的で実体的な要素とを結びつけ、認知空間を構築していくことを特徴にもちます。

 

企画構成は、建築や美術の制作・理論研究者として活動している砂山太一が担当します。砂山は、これまでに情報化以後の情報と物質のあり方に言及する展示企画をおこなってきました。

 

大岩の作品態度がそうであるように、本展は大岩の作品を契機としながら、空間設計、トークイベントやアーカイブ企画など、多くの分岐点を設置し、展覧会自体にあらゆる情報の経路を作り出すことを目的とします。*1

 

 

異なる時空間の配置、認識のバグ、鑑賞者と作品の相互包摂関係

 駒込倉庫の入り口に入ってすぐのところに、割れた花瓶の破片が散らばっている。そして、その頭上階はガラス張りになっており、そこにも同様に、おなじ形をした花瓶がもうひとつ置かれている。


 頭上と地上に置かれた、割れていない花瓶と割れて散った花瓶。これらのオブジェは、その異なる時空上の配置関係によって、あたかも同じひとつの事物の、時間的には異なるふたつの現れであるかのように知覚することを、鑑賞者に強いる。このとき、鑑賞者の視線の運動は、異なるショット同士をモンタージュするカメラのようなものとして二つのオブジェ同士をつなぐ。

 

f:id:hiropon110:20190303123745j:plain

f:id:hiropon110:20190303123022j:plain

 入り口付近、頭上と地上に配置された二つの花瓶

 

 このことに関連し、現代芸術復興財団によるインタビューにおいて、大岩は以下のように述べている。

 

展覧会とは、ものを並べる仕事だと思っています。時空間に並んだものをどうしても鑑賞者が結びつけないといけない。結びつけるという、インスタレーションや展示に要求される意識が、その対象自体をどんどんずらして落下させていく。たぶらかされていく。ここで立って見ているものはどこまで意図されたもので、どこまでモンタージュされたものかについて、鑑賞者は再検討しなければならなくなる。そのとき、落下のあわいに、落下を可能にする落差が見えるんです。鑑賞とは、連鎖する踏み外しです*2*3

 

 「スローアクター」において、鑑賞によって異なるオブジェ同士を結びつけるこのような認識の「バグ」は、展覧会を構成する素材であり、また、そもそもこの展覧会は、そのようなバグの発生をあらかじめ組み込む仕方で設計されている。

 

 それゆえ、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を見ると同時にその作品それ自体を成立させ、他方で作品は、見られると同時に見ることそれ自体を可能する。そのような本展覧会における鑑賞者と作品の関係は、ミッシェル ・セールが「袋詰め」と呼ぶ相互包摂の関係、すなわち、互いが互いを自ら自身のうちに含みこむ相互的な入れ子関係として常にすでに成立する。

 

f:id:hiropon110:20190304095219j:plain

通常の入れ子関係を持つマトリョーシカ。しかし相互包摂的な袋詰め構造において、一方は他方を包摂すると同時に、他方もまた一方を包摂する。(https://absurdopedia.fandom.com/wiki/Матрёшка)

 

 そもそも、通常の美術作品と鑑賞者との関係において、まず作品が存在し、次にその作品を鑑賞する者として鑑賞者がおかれると通常は見なされる。

 

   しかし、「スローアクター」において、鑑賞者と作品との関係の成立は同時的であり、のみならず、両者は互いを互いの成立条件として、あたかもウロボロスの輪のように循環しつつ際限のない入れ子関係を形成し、そして「鑑賞者と作品」という共犯関係へと「落下」していく

 

 「スローアクター」では、このように一見すると奇妙でパラドクシカルな事態を成立させるトリックが、至るところに編み込まれている。

 

f:id:hiropon110:20190303093043j:image

f:id:hiropon110:20190303103505j:image

一階、瓦礫の山の上でループされた音声を再生し続けるプロジェクターと、奥の階段

 

折り重なるマルチタブ・ブラウザと境界のあわいへの「落下」

 また「スローアクター」において大岩は、「落下」「水」「ズレ」「ループ」といった要素を、空間やインスタレーションなどを取り結ぶモチーフとして選択し、配置している。


 たとえば、駒込倉庫という二階建ての建築のうちで、鑑賞者は、瓦礫の山が無造作に置かれ、ループする音声が無機質に鳴り響く薄暗い一階から、階段を登って映像作品が置かれた手前のスペースへ、そして差し込んだ灯りがカーテン越しに揺らめきながらガラスへと反射し、その灯りに照らされるオブジェとペインティングが配置された奥の展示スペースへと移動する。

 

    その際、そのような時間の経過に伴って鑑賞者のうちで蓄積される鑑賞経験によって、建築物・映像・音声・オブジェ・ペインティング・階段・光と影といった展覧会の構成要素はみな、それらのモチーフを介してバラバラでありながらゆるやかに関係しあう

 

    あるいはまた、「対象自体をどんどんずらして落下させていく」という鑑賞行為によって、展覧会の構成要素は、あたかもマウスのクリックによってディスプレイ上に大量に開かれたマルチタブ・ブラウザのように、異なるリアリティの平面同士として、完全に一つに溶け合うことなくバラバラなまま折り重なる


 その意味で、一見して簡素で静かな佇まいであるこの展覧会には、高密度な関係のネットワークが張り巡らされている。

 

    そして、「スローアクター」において鑑賞者は、目の前の作品を鑑賞していくうちに、現在・過去・未来、ここ・あそこ、リアル・ヴァーチャルといった境界のあわいへと足を「踏み外し」て「落下」し、また、そのことを通じて「たぶらかされていく」。*4

 

f:id:hiropon110:20190303093129j:image

f:id:hiropon110:20190303093136j:image

f:id:hiropon110:20190303093644j:image

二階。順に《SURVIVED BALL FROM NAGAWARA》,《SURVIVED BALLS FROM NAGAWARA》,《EVENTUALLY EVEN》

 

「何らかの痕跡を消したり、あるべき姿をずらすこと」としての「落下」

 先ほどの大岩の発言からも分かるように、本展覧会においては、それらのモチーフのうちでも「落下」のモチーフに特権的な役割が与えられている。

 

 たとえば、ループされる音声や映像インスタレーション《EVENTUALLY EVEN》

において、幾度として反芻され参照される20世紀フランスの画家イヴ・クラインは、《虚無の飛翔》では高階から外へと身を投げ出して「落下」するが、それは実際のところ単なる見せかけ(フェイク)にすぎない

 

イヴ・クライン《虚無への飛翔》は、作家自身が二階から跳び上がる瞬間を撮った写真作品ですが、実はこの写真は合成写真でした。地上にクラインを受け止める人々が写っていたのをすげ替え、あたかも「空」へと作家が飛ぶように見せたものです

 

f:id:hiropon110:20190302233506j:plain

《虚無への飛翔(空虚への飛翔)/Leap into the Void》http://www.yvesklein.com/en/oeuvres/view/643/leap-into-the-void/


 こうした《虚無への飛翔》を大岩は、「本来の力のやりとりではなく、そこで力が起こったかのように見せかけてしまうこと自体」として解釈し、また、《虚無への飛翔》という題名における〈虚無〉を「何かの痕跡を消したり、あるべき姿をずらしたりすること」と見なす。

 

  とするなら、そのような虚無への「落下」とは、一見して互いにクリアーに分離している二つの現象・状態・事物が、分離しつつも類似・錯認によって折り重なり、鑑賞経験のうちで不可視に関係付けれることであり、あるいは、そうした現象・状態・事物を隔てる境界そのものが鑑賞経験のうちで組み替わることではないか。

 

 「スローアクター」において、そもそも重力による垂直運動である「落下」は、相互に分離した現象・状態・事物が類似・錯認によって折り重なりつつも、その境界を撹乱しつつ組み替えることである。こうした「落下」は、空間的には水平に配置されたオブジェ同士の関係や、映像作品内部で展開されるモチーフとオブジェクトのモチーフとの関係に適用され、また、鑑賞者の背後にあるキッチンをバグの生じたコンピューターでコピー&ペーストしたかのように描かれたペインティング《OUTSIDE IS VIVID》と、現実に背後に存在するキッチンとの関係に適用される。

 

    のみならず、こうした「落下」において、あらゆる境界は静かに撹乱され、組み替わりつつも、同時に物質それ自体としてのオブジェクト同士は混ざり合うことなくキレイに切り離されている、という奇妙な事態が成立する。

 

f:id:hiropon110:20190303093000j:image

f:id:hiropon110:20190303093805j:image

f:id:hiropon110:20190303093230j:image

二階奥の展示スペース。不可視な落下が交差し合う。ペインティングは《OUTSIDE IS VIVID》

 

<見る>ことを彫刻し、多方向性の「落下」を配置する、「遅効性(slow acting)」ドラッグとしての展示


 このように、本展覧会において配置された「落下」を誘うトリックは、実際の落下に伴う上下運動のみならず、オブジェ間との関係や時間的な前後関係、あるいは現実の事物とそれをコピーしたヴァーチャルなイメージとのあいだに認められることから、それは、エッシャーの《相対性》のように上・下、右・左、前・後ろ、奥・手前など、あらゆる方向に配置された多方向性の「落下」を誘うトリックである。

 

   そこでは、さながら熱を欠いた冷たい『不思議の国のアリス』のような、パラドキシカルな多次元宇宙が静かに、かつ不可視なものとして鑑賞者と作品とのあいだで展開される。

 

f:id:hiropon110:20190302233733j:plain

《相対性》,1953年, All M.C. Escher works © the M.C. Escher Company B.V. -Baarn -the Netherlands. Used by permission. All rights reserved. www.mcescher.com

f:id:hiropon110:20190303145438j:plain

Lewis Carrol:Alice's Adventures in Wonderland(https://greenonionblog.com/2017/03/06/alices-adventures-in-wonderland-by-lewis-carroll/

 

    そして、そのようなイヴ・クラインの思考を「プラグインのように導入」しようとする大岩は、そうした「落下」のうちでも、異なる時空同士を結びつけるような「落下」に着目している。

 

イヴ・クラインの考えていた時空間、時間的な虚無の発生をいかにインスタレーションの形式で再考し、実践化できるか。クラインを参照して、〈ものを展示する〉という独特な形式を、時空間の問題として緻密に取り上げるというのが、彼をモチーフとして採用した理由です

 

 そのうえで大岩は、各鑑賞者が自らの鑑賞行為によって作品や作品同士の関係を変容させ、また、それによって、鑑賞者自身の認識の枠組みそれ自体が変容してしまうような本展覧会の鑑賞経験を、「彫刻」という言葉で表現している。

 

展示というのは一挙にフラットに見えるものではなく、そもそも当の展示自体を、鑑賞者自身がどう見ることができるものなのかを彫刻していくようなものだと思います。見ているなかで、その見方自体がどんどん変わっていく。展示を見終えてもその人の見方自体が彫刻されて、変えられてしまうんです

 

f:id:hiropon110:20190303093148j:image

《MIRACLE OF NIAGARA》など、<水>たまりの上にいくつかのモチーフが浮かんでいる。

 

    本展覧会において、<見る>ことを彫刻し、そして、そのような<見え>を経験する自ら自身をを彫刻するように誘うさまざまな「落下」、あるいは≪虚無への跳躍≫のトリックは、あたかも美術作品の周りに張り巡らされた不可視な赤外線センサーのように、本展覧会の至るところに張り巡らされている。

 

 そして、本評で何度も述べたように、そのような「落下」のトリックはあくまで不可視なものであり、物質それ自体としてのオブジェ同士はキレイに分離し合っている

 

 つまり、一方で物質それ自体としてのオブジェは互いに分離しつつも、他方で鑑賞者と作品とのあいだで更新され続ける関係付けのフィードバックループにおいて、それらは融和し、混ざり合う。

 

 ゆえに、「スローアクター」において同時に経験される分離と融和の経験は、鑑賞者に対して、あたかも徐々に心身を蝕んでいく奇妙な毒のようなものとして作用する。

 

「スローアクター」という語は、毒や薬の性質である「即効性(immediate acting)」「遅効性(slow acting)」に由来しています。大岩さんは「immediate」は「media」に否定の接頭辞「in」が付いたものであることに注目します。つまり即効とは「中間物=media」がないものですが、しかし美術の実践とはむしろ何らかの媒介のうえに成り立たせるものです。そこでは常に理解のための時間を要し、「その時間のあいだに、理解・見方は当の対象によって更新される」──それゆえに美術は「slow acting」なのだと言います。

 

 幾つもの「中間物=media」を介在させることで、経験を更新させると共に遅延させ、また、多方向性の「トリック」によって鑑賞者を宙吊りにさせる「スローアクター」の展示は、展覧空間のなかだけにとどまらず、<見る>ことを中心とした知覚経験を組み替え、拡張する

 

 またそれによって、日常的な現実それ自体も同様にあたかも大量のブラウザが開かれた折重なり合うスクリーン画面のようなものに変容させ、組み替えてしまう。徐々に徐々に、あるいは気がつけばすでに、かつ決定的に。

 

 そのような「スローアクター」の展示は、まさしく「遅効性(slow acting)」ドラッグにほかならないだろう。

 

f:id:hiropon110:20190304114553j:image

f:id:hiropon110:20190302235418j:plain

 

*1:http://euskeoiwa.com/2019slowactor/

*2:

https://m.facebook.com/notes/contemporary-art-foundation公益財団法人-現代芸術振興財団/caf-note-vol-2-大岩雄典さんcaf賞2017-海外渡航費授与/2238328059741720/

*3:本評における大岩からの引用は全て、注1のインタビューからの抜粋。なお、太字は全て筆者によるもの

*4:前引用での「たぶらかされていく」の主語は明記されておらず、前文の主語である「対象」が「たぶらかされていく」とも見なせるが、むしろ鑑賞者自身の方が作品とのあいだの鑑賞関係によって「たぶらかされていく」と解釈することもできる。