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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて── ⑤

1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
 
3−2.(c) まとめ
3−2.(a),(b)より、本稿において仮定された三つのパートにおいて、高橋は、「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか」といった問いに対して、それらの各部分ごとを有機的に関連づけることを通して応答していると考えられる。
繰り返すならば、2−1.(a)は、他者の行為の意味理解がいかなる点において不可能となるのか(不可能性の二つの水準)、2−2.(b)は、翻って他者の行為の意味理解はいかなる点において可能となるのか(かつて関わった他者の行為理解の時間性と共同主観性との関連性について)、2−2.(c)は、2−2.(a)と2-2.(b)の議論を前提とした上で、当該記事全体を貫く主題に対して応答している箇所であると言える(一度たりとも関わったことのない他者の、その行為や経験の理解可能性について)。
 
3−3. 他者の行為の意味を、事後的かつ共同主観的に理解することの問題点
ここまでの議論を受けて、本項では最後に、上述の他者の行為理解が持つ問題点について指摘する。
ここまで述べてきたように、高橋の当該記事において、行為の意味理解は、現在時における相互作用を通じて、事後的にかつ遡行的に見出される、と考えられる。それは、いいかえると、行為の意味は、現在時の行為の只中にあっては理解不能であるということを意味している。そして、このような理解は、最終的には反省的に再構成される。それゆえ、現在時において行為者が行ったときの意図とは異なる行為の意味は、あくまで推定という形式のもとでのみ見出される可能性がある。たとえば、ルソン島で慰霊の儀式を行ったのち、高橋は以下のように述べている。
 
「人は、最後の瞬間が近づくとき、なにを考えるのだろう。〔…〕それがなにであるかは決してわからないであろう。けれども、それを想像することは可能であるように、わたしには思えた。なぜなら、彼らもまた、わたしと変わらぬ、ふつうの人間であったであろうから。〔…〕そして、わたしには、伯父が、彼らが、そのとき、戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像したに違いないと思えた。死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに晒されながら、それでも生き抜いて、その未来にたどり着けたら、と薄れゆく意識の中で、思ったのではないだろうか」
 
上記の引用において、注意すべき点は二点ある。
第一に、上記の引用において高橋は、戦死した人々が何を考えていたのかを「想像することは可能である」と述べる一方で、他方で高橋は「それがなにであるかは決してわからない」と述べている。つまり、そのようにして見出される他者の行為の意味は、あくまでも文字通りの他者の行為の意味と近似しているに過ぎず、したがって、そうした想像が、他者の行為の文字通り意味であることはあり得ない、と考えられる。いいかえると、他者の行為理解の共同主観的なモデルをい前提とするならば、厳然と存在する行為の真なる意味理解は、常に既に宙吊りに晒される(この点に関しては、以下の文献を参照。野家[1996]、浅野[2001])。
第二に、上記の引用においては、戦死者という他者の理解は、「伯父」と「わたし」が「ふつうの人間」であるという仮定から導き出されている。これは、シュッツの言う「他我の一般的定立」に相当する操作である。すなわち、高橋は当該記事において、「わたし」が戦死者とが、互いに似たような存在者であると仮定されることにより、他者の理解が可能であると見なしている。しかし、シュッツの述べる「他我の一般的定立」とは異なり、理解すべき他者を「ふつうの人」として仮定することには一定の問題がある。高橋はここで、「ふつうの人」とは「戦いのない、死に脅かされることのない、平和に満ちた未来を想像」する人間であると考えられる。しかし、これは、現に高橋自身が「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈っていることから、同様にかつての戦死者たちもそう思っていたに違いないとする推定を前提としている。端的に言うならば、これは、他者を自らと同型の存在として仮定することを通して、他者の体験を理解しようとしており、そのような他者理解の形式は、他者の行為を恣意的に理解する可能性と常に隣り合わせであると指摘することができる。そして、それは明らかに他者の誤った理解に他ならない。
 
上述の議論より、高橋が想定する他者の行為理解モデルの問題点は、まず第一に、行為の真の意味が常に宙吊りにされること、第二に、そのような他者を自らと同型の存在として仮定する恐れがあること、この二点を挙げることが出来る。
 
参考文献
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫,2005)
浅野智彦『自己への物語論的接近』(勁草書房,2001)
稲葉振一郎社会学入門・中級編』(2019)
 
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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて── ④

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(ポリタス,2015)
 
3. 終わりに
本節では、これまでの議論を受けつつ、高橋の当該記事の分析から、「では、我々は、「今・ここ」においては見出しえない行為の意味を、どのように事後的に理解するのか。いいかえると、現にその行為の只中においては存在し得なかったが行為の意味を事後的に再構成するとき、行為の意味は、具体的にはどのような過程を通じて生じるのか。そして、そのような時間的間隔を伴った行為の意味理解は、我々にとって一体いかなる意味を持つのか」という「はじめに」で掲げた問いに対して応答する。
また、「2−2.方法の明示」で掲げた目的をに対し、当該記事の三つの部分がいかに従属するのかを明示したのち、こうしたシュッツ(あるいは高橋)による行為の意味理解にどのような問題や課題があるのかを明示する。
 
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
2–3の(a),(b),(c)で分析したように、高橋の記事において、行為の意味理解のプロセスは、ある種の時間的な間隔を伴った反省的な再構成である。そして、その特筆すべき点は、過去を行為の意味を再構成する際、高橋はその過程を、ある種の役割関係の再演によって示していた。つまり、行為の意味とは、行為者Aの行為aが原因となって、出来事bを結果として導き出すという、単一の因果系列を理解することによって理解されるものではない。また、それは、行為した時点における行為者Aの内的な表象から直接に導き出されるものでもない。それは、過去から現在にまで伸び広がる時間の幅において、当該行為者を含む複数の行為者とのあいだで生じる相互作用から生産されるものである。ゆえに、このような行為の意味が生産されるプロセスは、ある種の時間的な間隔を伴うと共に、ある種の協働的(co-productive)な過程によって実現すると言ってもよい。というのも、繰り返しになるが、過去における行為の意味とは、過去から現在に至るまでに生じる相互作用の只中から遡行的に見出されるだからである。
また、そうした行為の意味は、共同主観的な性質を持つということも出来る。というのも、高橋の行為理解のモデルにおいて、行為の意味理解は、孤立した意識による反省によって再構成されるのではなく、各々に反省的な認識を行うことが可能な主観的存在同士の相互作用より生じるからである。ただし、そこでの共同主観的な性質は、そうした行為の意味理解の可能性の条件としてアプリオリに措定されるような、純粋な形式として超越論的なものではない。むしろ、そうした役割関係の再演の只中から、遡行的にかつての行為の意味が再構成されるという、ある種ダイナミックな性質を持っている。これらのことから、行為の意味理解とは、ダイナミックな役割関係の再演を伴う、ある種の共同主観的なプロセスによって発生すると考えられる。そのことから同様に、もし仮にそうした実際の相互作用から人が切り離されてしまえば、そこには行為の意味を理解する可能性は全くあり得ない、ということになる。
 
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか、そのことを明らかにすること」という当該記事の目的に対して、以下の三つの部分は下記のように従属していると考えられる。
先立って述べるならば、上記の目的に埋め込まれた問いへの応答は、──本稿が導出した議論の枠組みに従うならば──他者との相互作用において役割関係を再演すること、あるいはそのような役割関係の再演に対して積極的に参与することに他ならないというふうに考えられるだろう。つまり、そうした体験の理解や受容は、何度も繰り返し反復されるある種の相互作用のもとで事後的かつ遡行的に再構成されると見なされるからである。では、このような目的への応答に対して、当該記事の三つのパートはいかなる機能を果たしているだろうか。
 
3−2.(a) 行為の意味理解を困難なものとする、二つの不可能性の水準
まず第一に、2−2.(a)においては、行為ないし経験の意味理解は、他者との相互関係から切り離されては生じないということが述べられている。その際、そのような他人との相互作用からの切り離しは、主に二つの水準において設定されている。第一に、それは「このわたし」に対する他人の端的な他者性である。他者は「このわたし」とは端的に異なる存在者であり、それゆえ、他者の行為の意味理解は、ある種の推定の域を出ることが出来ない。高橋の記述において、そうした自他の端的な意味での分離は、ときに、行為や経験の意味理解の可能性を奪うものであるというふうに想定されている。これが第一の水準である。第二にそれは、個別的な他者の時空上の位置が、「このわたし」の時空上の位置とは全くかけ離れている場合がある、という点である。
こうした2−3(c)と3−1の議論からも分かるように、行為の意味理解にまつわる、こうした二つの不可能性の水準は、実は高橋において、共通の問題に根差していると考えられる。それは、行為の意味理解は常に既に事後的に再構成されるということ、そして、そうした再構成は他者との動的な相互作用のうちより生成されるという点である。それゆえ、(a)において、「少女」や「父」との経験について述べたのち、そのまま高橋が「『あの戦争』の被害者」が語る「戦争の悲劇」が「自分には関係のないこと」のように感じられるという記述を繋いでいることは、高橋が前提とする行為の意味理解の形式から、いわば必然的なものとして考えられる。「このわたし」とは端的に異なる他者とは、同時に、時空位置を全く異にする他者であり得るからである。
したがって、他者が「このわたし」とは端的に異なるという不可能性の水準と、他者が「このわたし」と時空上の位置が全く異なり得るという不可能性の水準という二つの水準は、ともに関連したものと考えられる。そして、当該記事における高橋の最大の狙いは、第二の水準、すなわち時空上の位置が全く異なる他者の、その理解の不可能性を反証であると表現できる。
 
3-2. (b) 時間的に隔たった他者の行為の、その理解可能性について
上記のことを前提とした上で、高橋は2−2.(b)と(c)において、ある主張を導いている。それは、もし仮に、かつての経験した自己と他者の経験でさえも、現在時における経験によって新たな意味を獲得することが可能ならば、「このわたし」とは一度たりとも交渉を持ったことのない「70年前に戦士した伯父」が経験した体験でさえ、我々は理解することが出来る、という主張である。つまり、現在時において我々が「ふつうの人間」として他者とのあいだの役割的な相互作用の只中にいるならば、どのような他者の行為や体験の理解でさえも、あくまでも事後的に、完了時制として表現される形式を通じて生じる、というふうに高橋は想定しているのである。
 
このことから、2−2.(c)のパートで、高橋が以下のように述べている理由も明瞭に理解することが出来るだろう。「慰霊の旅を熱望」する父と母の代わりにフィリピンのルソン島に向かった「わたし」は、伯父の慰霊の儀式を執り行ったのち、以下のように述べている。
 
「そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである。〔…〕わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。〔…〕慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。そして、その視線に気がつかなくとも、彼らは、わたしたちを批判することはないだろう。「過去」はいたるところにあり、見返りを求めることなく、わたしたちを優しく、抱きとめつづけているのである」
 
上記の記述において、高橋は「無数の死者たち」が「わたしをじっと見つめている」ように、すなわち、死者が今もなおわたし自身に対して働きかけているように感じている。もちろん、事実として、死者がある特定の時空位置に局在し、また「わたし」に対して視線を向けているわけではない。しかしながら、現在時において「わたし」が70年後の未来を思うとき、同時に、70年前の死者にとっては、この現在でさえも「未来」なのだということに「わたし」は気がつく。そのときにはじめて、「わたし」が「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈るのと同じように、かつての死者たちもまた、「未来が、平和と穏やかさに満ちたものであるように」と祈っていたのではないかとする理解が生じる。それゆえ、「過去」に存在したであろう他者の行為や経験の意味理解は、現在の我々が現に只中に置かれている相互作用から遡行的に導き出されるものであるというふうに高橋は考える。

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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて──②

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(2015,ポリタス)
 
2-3. 分析
2−2.でも述べたように、本稿では、当該記事を主の互いに有機的に連関する三つ部分に分割可能であると仮定したい。それは以下の三つのパートである。
第一のパートは、現在の「わたし」が過去を回想し、それについていかなる意味づけをすることもなく、また情動的な受容経験を行うことなく、淡々とそれを事実として受け入れていく箇所である(a)。
第二のパートは、そのような過去を経たのち、息子と共に居る場面を通して、「わたし」が、かつて出会った少女や自らの父との出来事や、彼らの行為に対して、異なる意味を見出す箇所である(b)。
第三のパートは、そうした意味理解を通じて、すでに過ぎ去ってしまった過去の出来事をいかなるものとして見なすべきかについて、高橋自身の見解が述べられている箇所である(c)。順に見ていこう。
 
2-3.(a) 第一のパート
まず第一のパートである。第一のパートで提示されるのは、社会において周縁的存在者(marginal  man)として存在する「(かつての)わたし」である。その記述によれば、たとえば高橋は大学を卒業することなく働き始め、一時期は「女衒」のような売春斡旋の仕事をしてお金を稼いでいた。そこでは、中流家庭に生まれ育ち、中間層として生活するような、日本におけるある種の平均的な生活の様式に組み込まれずにパージされた人間の生活が描写されている。当時の日本は戦後高度成長期であり、田中角栄による所得倍増計画など、中間所得者層の拡大が目指されていたが、当然ながら、そのような社会の変化から零れ落ちてしまう人々は同時に存在している。このパートの記述は、そうした中間層に組み込まれることのなかった都市生活者の描写として読むことが出来る。しかし、注意する点は以下のような記述である。
女衒をする「わたし」は、「魂を殺しちゃった」と述べたのちに手首を切った売春婦の女の子のことを思い出し、以下のように回想している。
 
「そのすべてが愚かしいようにわたしには思えた。なによりわたしが驚いたのは、わたしが少しも、その女の子に同情していなかったことだった。わたしは、その哀れな女の子を痛ましいと思うべきだったのだろう。けれども、わたしには、そんな感情が少しも沸いてはこなかった。「自分には関係のないことだ」というのが正直な気持だった。いや、まるで、当てつけのように、目の前で手首を切ったその女の子を、わたしはどちらかというと憎んでいたように思う。/どうして、わたしはなにも感じなかったのだろう。どうして、同情ではなく、腹立たしい思いがしたのだろう。手首を切ったことではなく、「魂を殺しちゃった」といった、その、まるで小説の中のセリフみたいなことばを使ったことに、憎しみを抱いたのかもしれない。なぜなら、彼女には、確かに、そのことばを使う資格があるように、わたしにも思えたからだ。そして、そのことばによって、わたしを責めているように、思えた」
 
高橋はここで、少女の行った行為を、「同情」すべきことではなくむしろ「自分には関係のないこと」として自ら自身から切り離している様子を描写している。それどころか、そうした「小説の中のセリフみたいなことばを使ったこと」で、少女が「わたし」を「責めている」ように「わたし」自身が認識したことについて述べている。こうした、ある種の出来事に対する「わたし」の態度は、父の死に対してより一層明確に提示される。高橋は以下のように述べている。
 
「作家になって、しばらくして父が癌で亡くなった。父は放蕩と無能で家族を何度も路頭に迷わせた人だった。わたしはほとんど父を憎んでいたので、病院に着いて、ベッドで微かに瞼を開けて死んでいる父を見ても、なんの感慨も浮かんではこなかった。それから、ほどなく、父と別居していた母も亡くなった。そのときにもほとんど、わたしはなにも感じなかった。弟や妻は泣いていたが、わたしは、そんな彼らを不思議そうに眺めるだけだった。彼らは、わたしにとって生物学的な父や母にすぎず、そして、すべての人間がそうであるように、死んでいった。ただそれだけのことのようにわたしには思えた。もちろん、わたしも、そうやっていつか死んでゆくだけのことなのだ」
 
上記の引用においては、「癌で亡くなった」父は「放蕩と無能で家族を路頭に迷わせた人」であり、そのような父への「わたし」の憎しみや冷酷な態度は、先の少女の例に比べてより明確に、かつ正当な理由を持ったものとして提示される。「ベッドで微かに瞼を開けて死んでいる父」は、「わたし」に対して「なにも感じ」させるものではなく、それを「泣いて」悲しむ「弟や妻」を、「わたし」はただ「不思議そうに眺める」に過ぎない。このような「わたし」において、人の死は、「すべての人間がそうであるように」当たり前に経験する「ただそれだけのこと」として、その意味の理解やその意味がもたらす情動的受容経験から、「わたし」は切り離されている。
これらの記述を行なったのち、高橋はこのような「わたし」と「少女」や「父」との関係を、「みんな」と「政治や社会」において問題とされる「世界の悲惨」や「この国が犯した恐ろしい罪」との関係に重ね合わせることにより、多くの人々にとって、過去は「他人」ごとであり、自ら自身の追憶や追想の不可能性から、そのような過去の経験を「本心から」憂うことの困難となっているのではないかという主張が暗に高橋は示唆している。高橋は以下のように述べている。
 
わたしは作家を続け、その作品の中で、あるいは、エッセイの中で、「他人」の境遇や悲惨さに心を動かすことばを書きつけたこともあった。けれども、書きながら、「それはほんとうだろうか」と思った。わたしが、政治や社会について発言することを用心深く避けてきたのも、そんな、わたしの本心を気づかれるのが恐ろしかったからなのかもしれない。/ほんとうに、みんなは、世界の悲惨に憤ったり、この国が犯した恐ろしい罪を憎んでいるのだろうか。本心から、そんなことが思えるのだろうか。わたしには、疑わしいように思えた。というより、そんなことは、どうでもいいことのように思えた。
 
第一のパートの重要な点は二つある。
第一に、このパートにおいて、多くの出来事の帰責関係は事実として規範に従うものではないものとして記述されている。たとえば、少女の自傷行為は必ずしも高橋(とされる「わたし」)にのみ事実として帰責されるものではなく、また父の死に対する「わたし」の無感覚には、「路頭に迷わせた」父への憎しみと、そのような憎しみを整合的に理解するに足る「放蕩と無能」という事情が背後にあることが明記されている。こうした幾つもの出来事において、出来事とそれへの反応は、ある種の自然なものとして、あるいは不可避な事態であるかのようなものとして描かれている。このような描写は、当該記事の論理構成の観点から必要不可欠な描写であると見なすことが出来る。というのも、戦後日本においては、「べき」を伴った「正しさ」に対して同調できない人々が現に事実として存在する。高橋は、そのような人々を念頭に置き、そのような人々と当時の自ら自身とがある種の連続した存在であったことを明示するために、こうした一連の描写の形式を採用しているからである。そのことは、以下の記述からも確認することが出来る。売春婦の訴えに情緒的に応えることのできなかった高橋は、そのときのことを振り返りながら、以下のように述べている。
 
「それは、ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似ていた。「あの戦争を繰り返してはならない」といわれるとき、感じる、「でも、自分には関係のないことなのに」という思いにも似ていた。反論しようのない「正しさ」を前にして、「正しいから従え」といわれたときのような、やる瀬なさにも似ていた」
 
第二に、この文章において高橋は、自ら自身の過去に起きた出来事を、同時に全くの「他人」の出来事と同等の身分を持つ出来事として記述している。このことは、たとえば高橋が少女の自傷行為を回想する際、それを「ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似てい」ると述べていることから確認することができる。
この二点から、過去の出来事は、その意味が固定したまま変動せず、それは「わたし」から切り離され、「わたし」に対して疎遠なものとして記述されている。

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行為の意味理解における時間性と共同主観性について──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて──①

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(2015,ポリタス)
 
1. はじめに
シュッツによれば、動機の理解は事後的に生じる。あるいは動機は、その只中において「〜のために〜するつもりだ」という未来時制で表現される目的動機から、その事後において「〜なので〜したところだ」という完了時制で表現される回顧動機へと移行したときに、初めて理解可能となる。ゆえにシュッツによれば、我々は、その過程の只中において行為の意味理解から常に既に立ち遅れており、そのため、翻って動機の意味とは、常に既に反省的に再構成されたものに他ならないと見なされる。
 
では、我々は、「今・ここ」においては見出しえない行為の意味を、どのように事後的に理解するのか。いいかえると、現にその行為の只中においては存在し得なかったが行為の意味を事後的に再構成するとき、行為の意味は、具体的にはどのような過程を通じて生じるのか。そして、そのような時間的間隔を伴った行為の意味理解は、我々にとって一体いかなる意味を持つのか。
 
本稿では、そうした時間的な間隔を挟んだ行為の意味理解が、一体どのように過程を通じて発生するのかに関して、主に、高橋源一郎の「死者と生きる未来」(ポリタス,2019)というWeb記事の分析を通して明らかにし、そのあり得る特徴を幾つか明らかにする。
 
その際、本稿ではそうした当該記事の分析を、ある種の質的な事例研究の一つとして位置付ける。というのも、高橋は価値的行為を行う人間の一般者ないし代表者とは異なるが、しかし、そうした価値的好意を行う人間種のうちの一人である。ゆえに、高橋の記事は、すくなくとも行為者一般がいかに行為の意味を理解し、そのような理解によって生活世界を立ち上げるのかに関する、一個のサンプルとして見なすことができる。そうした事例の分析は、あくまでもそれだけでは科学的な営みと言うことは出来ないが、しかし全く無意味なものというわけではない。こうした事例分析は、社会科学という営み全体において、ある種の仮説形成的な役割を持つ(そうした質的な事例研究の位置づけについては、以下を参照[稲葉 2019])。
 
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2015年の夏、作家の高橋源一郎は「死者と生きる未来」という記事を書いている。この記事は、津田大介が運営するWebメディア「ポリタス」上に掲載された。そして、この記事は主に、戦後の70年が一体どのような70年であったのかを回想することを目的として書かれた。
 
そもそも2015年とは、安全保障に関する法の制定が大きな社会的トピックとなった年である。具体的にいうと、2015年は慰安婦問題の過熱化や尖閣諸島問題といった、主に中国や韓国などの近隣諸国との外交状況がより深刻化した年でもあった。戦後の70年を振り返る当Webサイトの企画は、そうした過熱する外交問題から要請されたものであり、それは、戦争という経験を我々が今後いかにして受容し、その記憶を我々がいかにして継承していくのかに関する、喫緊した要請であった。そして、当該記事は、そのような逼迫する社会情勢の変化を背負う企画記事の一つとして書かれた。
 
当該記事において高橋は、戦後70年を回想するにあたり、自ら自身の過去に起きた出来事について語っている。いいかえると、高橋は、現在時の「わたし」がかつての自らの人生を回顧するという形式のもと、自己史を再構成し、そしてその自己史の再構成を通して、戦後日本の70年を反省的に捉えている。つまり、高橋はここで、戦後の日本国民が過去の戦争を回想することと、自ら自身が過去の記憶を回想することのあいだに、ある種の類似した過程を認めるように文章を構成している。それゆえ、当該記事においては、我々がいかにして過去の行為の意味を事後的に理解するのかに関する、ある一つのパターンが具体的に提示されていると考えることができる。というのも、自己史の再構成と戦争体験の再構成とを重ね合わせることにより、高橋はそれを一人の特定の人間にのみ有用な行為理解としてではなく、特定の種一般に属する全ての人々に有用な行為理解として提示しているからである。そのため、もしその意図と試みに十分な説得性を認めることが出来るならば、その主張は行為の理解に関する一つのパターンを仮説的に提示していると見なすことができる。
では、高橋は、そのような行為の意味理解をいかにして生じるものとして提示しているのか。
 
2-2. 方法の提示
本節では、高橋源一郎「死者と生きる」を分析するにあたり、その方法を明示する。それは以下のものである。
まず、本稿では当該記事の持つ論理構成上の形式を以下のように仮定する。第一に、本稿では当該記事を主に三つの部分から成る一個の全体として仮定する。第二に、当該記事において、そうした三つの部分は、それを統合する一つの目的に従属するものであると仮定する。その際、本稿では、その目的を「戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか、そのことを明らかにすること」であると仮定する。この仮定は、そもそも当該記事が上述の企画のために要請された依頼原稿であることから、あくまで暫定的に正当化されるだろう。上述の諸仮定により、すなわち当該記事を三つの部分に分割し、それを綜合する目的とを設定することにより、本稿において、個別具体的なテクストの読解作業は、そうした部分が目的のために有意味な機能を有しているかどうかを判定する作業として位置付けられる。
次に本稿では、そうしたテクストの読解作業を、主にそこで述べられている主張に対し、その意味の解釈の枠組みを都度提示することによって行う。だがその際、本稿では、当該記事を読解するために何か特定の特権的な理論的枠組みを想定しない。そのような特定の理論的枠組みを適用することによってではなく、あくまでも先の論理構成にまつわる形式の仮定に従い、その目的に対して部分がどのような機能を持っているのか、実際のテクストを参照することを通して、テクスト分析を行う。
 
2-3. 分析
2−2.でも述べたように、本稿では、当該記事を主の互いに有機的に連関する三つ部分に分割可能であると仮定したい。それは以下の三つのパートである。
第一のパートは、現在の「わたし」が過去を回想し、それについていかなる意味づけをすることもなく、また情動的な受容経験を行うことなく、淡々とそれを事実として受け入れていく箇所である(a)。
第二のパートは、そのような過去を経たのち、息子と共に居る場面を通して、「わたし」が、かつて出会った少女や自らの父との出来事や、彼らの行為に対して、異なる意味を見出す箇所である(b)。
第三のパートは、そうした意味理解を通じて、すでに過ぎ去ってしまった過去の出来事をいかなるものとして見なすべきかについて、高橋自身の見解が述べられている箇所である(c)。順に見ていこう。

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行為の意味理解における時間性と共同主観性について ──高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析を通じて── ③

目次
1. はじめに
2. 高橋源一郎「死者と生きる未来」の分析
2-1. 事例提示と問題提起
2-2. 方法の提示
2-3. 分析
 2-3. (a) 第一のパート
 2-3. (b) 第二のパート
 2-3. (c) 第三のパート
3. 終わりに
3−1. 行為の意味理解、それは役割関係の再演によって意味がダイナミックに産出される、共同主観的なプロセスである
3−2. 分割された三つの部分の、目的への従属関係を判定する
 3−2. (a) 行為の意味理解を不可能なものとする二つの不可能性の水準
 3−2. (b) 時間的に隔たった他者の経験のその理解可能性について
 3−2. (c)まとめ
3−3. 他者の行為の共同主観的な理解モデルの問題点
参考文献
 
分析素材:
高橋源一郎「死者と生きる未来」(2015,ポリタス)
 
 
2−3.(b)第二のパート
次に第二のパートである。このパートにおいて高橋は、数十年もの時間が経過したある日の出来事を描写している。高橋は以下のように述べている。
 
「8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。/そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。/バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。/わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現したと思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ」
 
息子と共に居る自らの姿が父の姿と酷似しているという経験によって、「わたし」は驚きを覚え、「恐怖にかられ、叫び出し」そうになる。このような、ある種の類似経験によって、高橋は過去の体験に対する意味が変容する瞬間を記述している。つまり高橋はここで、行為の意味理解が、そのような体験に類似した経験を行うことを通じて遡及的に見出されるという、シュッツの行為の意味理解と類似した理解のプロセスを記述している。たとえば以下の引用は、そのような決定的な瞬間を記述した箇所である。父との類似に戸惑う「わたし」は以下のようにその意味が変容する過程について述べている。
 
「わたしは、その愚かしい間違いに、失笑した。なんてことだ。馬鹿馬鹿しい。/その瞬間、わたしは、それまで一度も体験したことのない不思議な感覚を味わったのである。鏡に映っているのが父だとするなら、その父に歯を磨いてもらっている長男は、わたしではないか。そう感じたとき、体が裂けるほどの痛みがわたしを襲った。ほんとうのところ、それは、痛みではなく悲しみだったが、あまりに突然だったので、痛みに感じられたのだ」
 
上記の引用において重要なのは以下の点である。それは、現在時による過去の出来事の再構成が、ある種の類似に基づく実際の役割関係の再演によって可能となり、そして、そこでは、他者という本来であれば自らとは隔たった存在に対する、ある種の擬似的な没入ないし移入のような心的過程が生じるという点である。つまり、「父」と「わたし」とのあいだの過去の関係は、「わたし」と「息子」とのあいだの現在との関係において、全く反転した役割関係として演じ直されることを通じて、その意味が理解可能となる。つまり、「私」は実際に父として「息子」の前で振る舞うということを通じて、現に「(その時点での)わたし」が「息子」を「なによりもいとおしく思っている」のと同じように、「父」もまた「わたし」を「なによりもいとおしく思ってい」たのではないかという仮定が生じ、その仮定が、過去の他者が行った行為の意味理解を可能としているのである。
そうした仮定から、「極貧の生活をしていた」とき、実は、「おかしが食べたい」と言った「わたし」に対して、「父」が「何時間もかけてリンゴを鍋で煮ていた」こと、また「夜中に発熱したわたし」を「父」は「かついで30分以上かかる医者のところに運んでくれた」ことなどの記憶が思い出される。それにより、高橋は、当時においては全く存在すらしなかった父の行為の意味が、そのような記憶のうちで新たなものとして理解され、情動的な追想を伴ってありありと経験されるプロセスを描いている。つまり、高橋は当該箇所において、旧来では想起され得なかった過去の出来事を、現在時における役割関係の再演を通じて、新たな行為の意味理解を伴って経験され直す過程を記述していると考えられる。
 
2-3.(c)第三のパート
こうした自己史を再構成によって、高橋は第三のパート、すなわち、かつての戦争体験を現代の我々はどのように引き受ければよいのかを述べるパートを記述している。
しかし、この第三のパートには、これまでの記述が有していた目的に対する諸機能と明確に対応しない、ある問題点が存在する。より端的に言うならば、第三のパートの記述には、これまでのパートから抽出された行為の意味理解のパターンとは矛盾する主張を含まれている。本項では、その当該箇所を明示し、その問題点ないし矛盾点を指摘する。その不整合な主張を含む問題の箇所とは、以下の箇所である。2−3.(b)で最後に引用した文章の直後に、高橋は以下のように述べている。
 
「そのときから、わたしと過去の関係は変わったように思う。/わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。[…]〔しかし〕そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。/わたしたちが生きる、この現在は、過去が生み出したものだ。遥か、視線を上げると、わたしたちの周りにあるもので、過去と無関係なものは一つもないのである。一つのコップ、一枚の紙ですら、かつて誰かが、もうこの世には存在しない誰かが、全力で作り上げようとしたものの果てに生まれたものなのだ」
 
このような理解のもとで、高橋は戦地のフィリピンで亡くなった伯父の慰霊を行い、「最大の檄戦地となったルソン島・バレテ峠の、北に向って、すなわち遥か日本に向って建てられた慰霊碑の前で、わたしは、長い間、瞼を閉じ、頭を垂れ」ことを通じて、かつてであれば「他人」に他ならない死者への慰霊の儀式を行うという、新たな行為の様式を獲得している。しかし、先ほども述べたように、この記述は「2−2.(b)第二のパート」で抽出された行為理解のパターンとは明確に矛盾している。それは以下のような矛盾である。
 
まず、上記の引用において高橋は、わたしたちを取り囲む「この現在」は「過去」が生み出したものであると述べている。それゆえ、「過去というもの」は「死んだ」ものだと思っていたが、実は「死んでいなかった」と見なされる。そして、その根拠として、高橋は「この現在」が「過去」から生み出されたということ、具体的には、「一つのコップ、一枚の紙」 のような個別具体的なものでさえ、「もうこの世には存在しない誰かが」作り出したものであるという事実を挙げ、そうした事実に訴える仕方で、高橋は他者の行為の理解や、戦争体験の受容や理解の可能性について述べている。いいかえると、このような主張は、他者の行為理解の可能性を以下の仕方で論証している。それは、そうした他者の行為やかつての出来事が、現に存在する事物に対して因果的な効力を事実として持っており、そのことから、そうした過去と現在とのあいだの因果系列の実在性を認めることによって、他者の行為の理解可能性を論証している。
しかし、本稿では、こうした主張を明確な誤りであると見なす。というのも、そうした主張は以下の二つの観点から間違っていると見なすことが出来るからである。その二つの観点とは、第一に、当該記事全体に一貫する主張から内在的に評価する観点であり、第二に、それが論理的な推論として妥当か否かに関して、外在的に評価する観点である。第一の観点から順に見ていこう。
 
まず第一の観点、すなわち当該記事全体との一貫性の観点からの評価である。そもそも、高橋は何故「過去」は「死んでいなかった」見なすことが出来たのか。それは、本稿で設定した区分に基づくならば、2-3(a)と2-3(b)における自己史の再構成によってであった。そこで、高橋は何をどのように述べているのか。それらのパートにおいて、高橋は、あれほど「他人」ごとであった「父」の死や「魂を殺しちゃった」少女の自傷行為の意味が、ある種の役割関係の再演がもたらす気付きによって、遡行的に再構成されたことについて述べている。その役割関係の再演がもたらす気付きとは、バスルームの鏡に写る自ら自身の姿が「父の亡霊」のように「父と酷似していた」ことに気付き、そして、「鏡に映っている」父に酷似した「わたし」の隣にいる「息子」は、実のところ「父」にとって「わたし」の位置に他ならないのではないかと気付くことである。このような気付きによってはじめ、現に「(その時点での)わたし」が「息子」を「なによりもいとおしく思っている」のと同様に、「父」もまた「わたし」を「なによりもいとおしく思ってい」たのではないか、という仮定が生じる。こうした過程を経て、「過去」は「死んでいなかった」という洞察が導出されるのである。少なくとも、高橋自身はそのようにして、自らのテクストにおいて行為の意味理解が変容するプロセスを記述している。
したがって、それは、現に過去と現在とのあいだに因果的な系列を事実として認めることができるといった主張とは全く関係がない。またそもそも、過去と現在とが事実として因果的に結びついているという事実は、むしろ、誰の目にも明らかであるような事実根拠としての「反論のしようのない『正しさ』」に訴えており、そのような訴えは、当該記事において「でも、自分には関係のないことなのに」という思いを喚起するものである、と述べられていたのではないか。上述の観点からの評価にもあるように、当該記事全体の主張との一貫性から評価するならば、少なくとも高橋自身はそうした事実への訴えとは異なる論証をしていると見なせる。
それゆえ、先の「この現実」が現に「過去」から生み出されたという事実に基づく「現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか」ということに関する結論の導出は、テクストに内在的に評価する限りにおいて誤っている。
 
次に第二の観点、すなわち論理的推論として妥当か否かに関する観点である。まず、もう一度、高橋が何故「少女」や「父」との経験を情緒的に受容出来なかったのか、その根拠を再構成しよう。
2-3(a)で見たように、高橋の記事において、行為の意味理解から切り離された状態とは、そうした行為があくまで「他人」ごととして「わたし」から切り離された状態であった。そうしたとき、少女の自傷行為は、単に「自分には関係のないこと」であり、のみならず、それは「当て付け」のようなものとして見なされていた。あまつさえ、わたしはそこで、自ら「責め」られているというふうにさえ見なしていた。くわえて、「父の死」のような経験もまた、「なんの感慨も浮かんではこな」い経験として「わたし」から切り離されていた。特に「父」との経験において顕著であるように、それは「感情が少しも沸いて」こないような、徹底した情動的な受容が欠落した経験として記述されていた。
では、このような「わたし」から切り離された状態とは、いかなる原因に由来するものであるか。高橋は当該記事においては、他者の行為の意味理解から「わたし」が切り離されていることの根拠として、以下のような根拠を挙げている。すなわち、それは、「少女」や「父」のような存在が、事実として「わたし」とは異なる端的な意味での他者であること、また、「世界の悲惨」や「この国が犯した恐ろしい罪」のような「政治や社会」にまつわる事柄が、事実として、時に時間や空間を共有していないどこかで生じること、この二点より上記の状態が導かれている。つまり、仮に事実に訴えて行為理解の事後的な再構成を導こうとするならば、むしろ、そこで導かれるのは他者の行為理解の不可能性に他ならない。
この点に関してはもう少し詳述が必要だろう。たとえば「このコップ、一枚の紙」が「かつての誰かが」作ったものであるとして、そうした事実は、果たして本当に戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか」という問いに対する応答であり得るだろうか。注意すべきは、このような記述において疑問視されているのは、「この現実」が「過去」から生み出されたという事実そのものではないという点である。そうではなく、問題は、そうした事実が、果たして当該記事の目的に適う有効な根拠であるかどうかという点である。つまり、本項の議論は、そうした事実が真の事実であるかどうかを問題としていない。確かに、「この現実」は全て「過去」から生み出されたものである。しかし、逆を言えば、いかなる「現実」であれ、「過去」から生み出されていないものなど、そもそも存在しない。「このコップ」はもちろんのこと、いかなるものが「過去」において何かしらの因果関係のもとで生じたものである。それゆえ、上記のような仮定は、特定の形而上学的な議論を構成する前提として有意味であるが、当該記事が想定するような目的に対しては、根拠として有意味ではなく、むしろ全く無意味な仮定である。
さらに、こうした仮定は、2−2.(a)で見たような、行為の意味理解からの排除を導く、特定の事実への反証としても有意味ではない。というのも、たとえ「このコップ」が「過去」の「誰か」が作ったものであったとしても、そのことは、それとはまた別の「あのコップ」もまた同様に同じ「誰か」が作ったものであることを含意しない。そのような形而上学的な仮定、すなわち存在や世界の純粋な形式に関わる仮定を前提としても、依然として「父」や「少女」は「わたし」とは端的に異なる他者であり、「世界の悲惨」や「この国が犯した恐ろしい罪」のような「政治や社会」にまつわる事柄が、依然として、時に時間や空間を共有していないどこかで生じるという事実それ自体は、何も変わらない。つまり、それらが「自分には関係のないこと」であるという事実は、何も変わらないのである。
それゆえ、高橋のこれまでの議論を受けて我々は、むしろこう考えるべきではないだろうか。「わたしたちが生きる、この現在は、過去が生み出したものだ。遥か、視線を上げると、わたしたちの周りにあるもので、過去と無関係なものは一つもないのである」と述べる高橋の認識は、むしろ、2–3(c)で分析したような、ある種の意味理解の事後的な再構成が遂行されたのちの地平において初めて見出される地平ではないか、と。すなわち、このような解釈に基づくならば、高橋は、本来は結果であるはずのものを原因と見なしている、と言える。このような解釈を前提とするならば、高橋が何故このような誤謬を犯したのかについて、より整合的に理解することが出来るだろう。戦後の70年を振り返り、それが一体どのようなものであったのか、また、現代を生きる日本国民は、そうした過去の戦争体験をいかに理解し、受容すべきか」といった点において、高橋は、「過去」が「この現在」とは切り離された「死んだ」ものではないと見なす認識が必要であると見なす。確かに、そのような認識に到達することなしに「この国が犯した恐ろしい罪」を「他人ごと」ではなく自ら自身の問題として引き受けることは困難であろう。しかし、それを事実として前提し、ある種の形而上学的な主張として受け入れるならば、それは、他者の行為を理解するという結果それ自体を無効化するものであると言わなければならない。
 
以上より、2−3.(c)における高橋の主張の一部は、テクストに内在的な観点から評価しても、テクストに外在的な観点から評価しても、共に誤っていると考えられる。

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「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(初期のメモ)

以下の資料は、「「メタ文学論」あるいは「文学の基礎づけ仮説」について」を書く際に、出発点として書いたものです。かなり変更を加えたのでこちらも載せておきます。

 

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「メタ文学論」、あるいは「文学の基礎づけ仮説」について(3)

 本エッセイは以下のエッセイの続きである。

 

hiropon110.hatenablog.com

hiropon110.hatenablog.com

 

 

補論(3) 「メタ文学論」の弱点

  1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない

 本エッセイでは、テクストの存在身分を検討し、またそうしたテクストが現実世界とのどのように関係するのかについて、形式的に記述した

 

 しかし、このような形式的な議論は、同時にその議論で用いられている概念の外延を確定する手続きを、不当に看過していると見なすことができる。そして、そのような看過は、本エッセイ自体の仮説の妥当性を揺るがす重大な瑕疵であると解することが可能である。どういうことか。

 

 たとえば本エッセイでは、その議論の重要な構成要素である二つの概念、すなわち「テクスト」「事象」にたいする外延の確定が全くなされていない。のみならず、外延を確定のための明確な基準が全く示されていない。これは本仮説の持つ重大な瑕疵である。

 

 「テクスト」と一言で言っても、『リヴァイアサン』のような社会哲学に関する古典的なテクスト、『ハムレット』のような古典的な文学作品、『純粋理性批判』のような古典的な哲学書、あるいは『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』のような歴史学の古典的なテクストなどがある。これらはみな、自然言語で書かれた「テクスト」である。では、本エッセイにおける「テクスト」には、これらすべてのテクストが該当するのか、あるいは部分的にしか該当しないのか

 

 こうした外延確定のための明確な基準を設定するためには、本エッセイで用いられる「事象」という概念の外延を確定することを必要である。だがしかし、この確定はそう簡単にできるものでない。

 

 幾つか例を挙げよう。
 第一に、シェークスピアの『ハムレット』はデンマーク王子ハムレットの復讐譚という、虚構的な存在者に関する物語である。このような物語において、そもそもテクストは、現実世界の事象なり出来事を記述していない。その意味で、『ハムレット』は、本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、同時に『ハムレット』は、一般に中世とは異なる近代的な主体の在り方を造形していると解釈される場合がある。そのような解釈の当否はさておくとして、仮にこのような解釈が正しいならば、『ハムレット』は、近代以後におけるわたしたちの在り方の原型を記述していると考えられる*1

 

 このことを本エッセイの議論に照らし合わすならば、近代以後の社会に生きるわたしたちの態度は、そのようなシェイクスピアの記述によって「形成」されたと解することはできるだろう。ならば、本エッセイにおける「テクスト」には、『ハムレット』のような虚構的な物語も当然のことながら含まれる

 

 第二に、『純粋理性批判』が記述しているのは理論理性に関する考察である。このような理論理性は、我々の認識能力の一部ではあるものの、本エッセイにおける「事象」が「現実世界に関するもの」と規定されているため、こうした不可視な概念を考察する『純粋理性批判』は、当然ながら本エッセイにおける「テクスト」から除外されるべきである

 

 だがしかし、『純粋理性批判』において考察される主体(subject)と対象(object)との関係は、近代以後の社会を生きるわれわれの基礎的な認識図式であるし、また「分析」「総合」「判断」「概念」などといった諸概念は、カントやその他の哲学者の膨大な論述によって意味が構築されている。

 

 そして、わたしたちは、このような諸概念をもちいて現実世界の事象を解釈し、判断し、経験する。そのため、『純粋理性批判』のように不可視な対象を記述するテクストも同様に、本エッセイが想定する「テクスト」に含まれる余地がある

 

 しかし、このように「事象」の外延を押し拡げることは恣意的な操作ではないか、より明確な基準を用いるべきではないか、とする批判はありうる。そのため、本エッセイにおける「テクスト」「事象」などの外延は明確に確定されず、そのような外延の曖昧さは本エッセイが提示する「メタ文学論」の弱点であると言ってよいだろう。

 

2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない

 

 「3. テクストの超越論的先行性の論証 2. 仮想的反論への再反論」でも述べたように、このような「メタ文学論」の仮説に立った場合、「なぜ古典的なテクストの著者がそのようにそれ以前では存在しないとされている事象を記述できたのか」を説明することができない。あるいは、仮に説明することができたとしても、「それは著者が稀に見る天才であったからだ」といった、著者の持っている特殊な資質に根拠が依存してしまう可能性がある

 

 そのような説明は、当然のことながら個々の著者の資質に依存する以上、理論としては脆弱な説明である。このような説明によってしか、著者による事象の形成を説明することができないならば、本エッセイにおける「メタ文学論」の仮説が妥当性を持つと見なすことは困難であるかもしれない


  補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。

 わたしたちは補論(3-1)で、不可視な概念が「事象」に含まれるかどうかについて検討した。だが、以下の説明手続きをとるなら、「自由」「善」「価値」「意味」といった概念、すなわち特定の可視的な事物に依存せず、また特定の感覚経験の様式にも依存しない不可視な概念を、本エッセイの「事象」と見なすことは、ある面では幾らか容易である

 

 なぜなら言葉の意味は生活形式のうちで理解され、のみならず、その言葉の意味の真の理解は、その言葉を使用した「起源」に立ち返ることを要請するが、このような言語理解の形式は、不可視な概念を例に取った場合に最もよく理解することができるからである。どういうことか。

 

(ただし、その場合「テクスト」が記述しているのは「不可視な対象」であるため、出来事のニュアンスを含む「事象」とは異なる対象の命名が必要とされるが)

 

 ヴィトゲンシュタインによれば、私たちは言葉の意味は生活形式のうちで理解される。いいかえれば、言葉の意味とは、現実世界における言語話者間の相互コミュニケーションから独立して存在するものではない。そのため、そうした言葉の意味は、もちろん相互的なコミュニケーションや書かれたテクストの外には存在しない(このことは「2. 二つの認識能力の批判 1. 感覚的経験批判」でも確認したとおりである)。

 

 くわえて、そのような言葉の意味は、辞書のような書物によっても十全に理解されるものではない。というのも、そうした言葉の意味は、その言葉の外に実体として存在するのではなく、その言葉の使用経験の歴史に依存しているからである。周知のように、辞書は時が経つにつれて改定され、あらたな言葉の用法や意味の変更などが常に更新されなければならない。言葉の意味は常に変化し続けていくからである。

 

 とはいえ、言葉の意味理解が生活形式に依存するということは、言葉の意味が各言語使用者のグループに応じて恣意的に決められるものでしかない、ということを意味しない。なぜなら、もしその言葉の意味の理解が本当に正しい理解であるかどうかを確認するためには、複数の言語使用者のグループにおける言葉の使用法を確認する必要があるからである。

 

 また、そのような言語使用をする共同体は、現在だけでなく過去にも存在する。そして、現代における言葉の使用は、そうした過去における言語共同体の言語の使用に依っている。とするなら、ある言語の意味を厳密に理解するということは、まずその言葉が最も最初に使用された生活形式を理解する必要がある。ただし、そのような最初期の言語共同体は、当然のことながらもはや現存しない。ならば、そのような最初期の言語使用者たちの生活形式を理解するためには、当時の生活形式に即した言語使用によって書かれたテクストを集中的に読むことが必要となる。そして、そのような過去における言葉の使用こそ、言葉の意味がこの世界に誕生した「起源」に他ならない

 

 ところで、実際に感覚し経験することができる可視的な事物にくらべて、「自由」「善」「価値」「意味」などの不可視な概念は、そうした言葉一般の持つ歴史的な性格が最もダイレクトに反映される。いいかえれば、そのような不可視な概念は、言葉の使用によってのみ端的に「形成」される。その際、言葉の使用は不可視な概念の可能性の条件であるとともに、そのような概念をつうじた世界経験の可能性の条件である。このように考えるならば、不可視な概念について考察するテクストも同様に、不可視な概念に対して形式的に先行していると考えることは、それほどおかしなことではないだろう


補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

 もし本エッセイの「メタ文学論」に理論的な利点があるとするなら、それは、わたしたちが普段行なっている認識活動をすべて無矛盾なものとして連絡することができる点である。

 

 というのも、第一にこの議論自体は主に日常的な推論を通じて為されており、第二に、その検証は主に認知言語学や心理学などの知見から行うことができ(るかもしれない)、そして第三に、その結果として擁護されるのは、現実世界におけるある種の事象は日常的推論や経験的科学によっては理解できず、ただテクストの読解によって可能となるという、現実世界を理解する際のテクストの絶対的な優位性である

 

 つまり、「メタ文学論」において、我々の認識経験における三つ様式(日常的な推論、経験的観察、文献読解)とは互いに連絡され、棲み分けられ、そして共生し合う

 

   また、このような理論は、主に以下のような二つの理論を回避することができる。

    その二つの理論とは、第一に、一つの認識経験のみに絶対的な優位性を認め、他の認識経験を当の認識経験に「還元」することを求める理論、第二に、当の認識経験を他の認識経験から完全に切り離し、わたしたちが経験する事象は説明不可能な私秘的な根拠によってのみ理解されるとする理論、この二つである。

   これらの理論に比べ、本エッセイにおいて提示した「メタ文学論」は、認識経験を一個の様式にのみ押しつぶことなく、複数の認識経験との共生可能性を提示するという総合性の観点において、大きなメリットを持つ。

 

まとめ

 本エッセイは、「歴史上の古典的なテクストの価値はいつの時代でも変わらず、それゆえ、特定の事象を理解する際に古典的なテクストを読解することには意味がある」という主張を擁護するために、テクストの存在身分やテクストと実際の現実世界との関係を形式的に記述する「メタ文学論」を提起する試みである。

 

 そして、そのような「メタ文学論」のありうる立場として、本エッセイは「文学の基礎づけ仮説」を提起する。それは、「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」によってテクストの存在身分やテクストと現実世界との関係を基礎付けることを最重要の課題とする。いいかえれば、本エッセイの目的は、そうした「これ以上遡行することが不可能な原理的な根拠」の真偽の検討することである。そして、それは「テクストの超越論的先行性」にほかならない。本エッセイの主要な論述は、こうした「テクストの超越論的先行性」を真であると論証するために為された。

 

また、本エッセイの構成は以下のようなものである。

 

はじめに

1.問題提起と仮説の提示
2. 当該事象に関する、二つの認識能力の批判
 1.感覚的経験批判
 2.理性的推論批判
3. 「テクストの超越論的先行性」の論証
 1. 仮想的反論の提示
 2. 仮想的反論への再反論と、それに基づく「テクストの超越論的先行性」の論証

 

補論(1) 「メタ文学論」を「基礎づけ仮説」ではなく「整合仮説」とみなすことの利点
補論(2) 「文学の基礎づけ仮説」は、同時に自然化される余地をもつ
補論(3) 「メタ文学論」の弱点
 1. 外延が明確に確定されておらず、確定のための明確な基準が、理論体系のうちに示されていない
 2. 著者がなぜ当該事象より以前に当該事象を「形成」できたのかを説明できない
 補論(3-1)の註釈:不可視な概念が「事象」に含まれると見なす根拠として、言語の歴史的性格が挙げられる。
補論(4)「メタ文学論」という理論的枠組みのメリット

まとめ

 

 ところで、このような「メタ文学論」は、個々のテクストを超えてテクスト一般の存在身分を検討するという意味で、こう言ってよければ、ある種の形而上学の試みの一つであると考えられる。

 

    だが、同時に本エッセイで考察した「メタ文学論」は、ものの可能性の条件でありながら、同時にそのものの経験の可能性の条件であるものとして「テクスト」を規定している。そのため、そのような試みは、私たちの認識が及びうる範囲というものが予め設定された上で「テクスト」という対象を規定していることになる。とするなら、それはある種の超越論的哲学の一派生形であるという意味において、認識論の試みというふうに言うことができるのではないか。このことについては、筆者の無知のゆえに、現段階では判断を留保したい。

 

 また主に「補論(1),(2),(3)」で詳細に述べたように、本エッセイは、多くの面でいまだ不十分な理論的仮説であり、数え切れない「穴」を持っている

 

 しかしながら、そのような「穴」が多く認められてもなお、この仮説の持つ意義は否定できないのではないか。というのも、仮にこのような仮説を立つならば、わたしたちは書かれたテクストや言葉にたいして相当に強力な固有性を認めることができるからだ。この仮説によれば、現実世界があってテクストや言葉がそれを記述するのではなく、テクストや言葉のほうが現実世界それ自体を形成していると見なされる。とするなら、数千年前の古文書を読み解くことは、まさしくこの世界の存立構造を探求することにほかならず、また、現代の若手の作家が書いた文学作品を仔細に読み解くことは、来たるべき現実世界の在り方を探求することにほかならない

   

 このような「メタ文学論」は、テクストの存在身分や現実世界との関係を可能な限り拡張する可能性を秘めた理論と言えるのではないか。もしこのような可能性と認めることができるならば、「メタ文学論」の試みは、それなりの意義を持っていると言えるだろう。

 

 

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*1:「『ハムレット』は哲学である|NHKテキストビュー」:textview.jp/post/culture/18226